家康を辿る城旅「鳥羽山城」!家康反撃の狼煙、二俣城奪還に向けて築いた付城

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「鳥羽山城」!家康反撃の狼煙、二俣城奪還に向けて築いた付城です。

■家康を辿る物語

天正3年(1575)5月、長篠・設楽原の戦いで、織田・徳川連合軍が戦国最強と言われた武田軍に圧勝しました。
この勝利を受けて、これまで武田方に領土を多く奪われていた徳川家康が反転攻勢に転じます。

同年6月には、信玄存命時に奪われた二俣城に軍を出します。
その奪還に向けて、二俣城の近くに鳥羽山城など5か所の付城(前線基地)を築きました。

強力な包囲網のなか、二俣城側は守将・依田信蕃の懸命な指揮のもと、僅かな手勢で半年もの間城を守り抜きました。
しかし主君・武田勝頼の「甲斐に引き挙げろ」との命令もあって、同年12月、信蕃は城兵の安全な退去を条件に開城城から撤退しました。

なお、この後に城主となる家康家臣・大久保忠世が城の明け渡しに立ち合うと、城内はきちんと清掃され、整然としていました。
忠世の報告を受けた家康も感心したと伝えられます。後に信蕃は家康に属することになりました。

■鳥羽山城

家康を辿る城旅。今日は、家康反撃の狼煙となった城「鳥羽山城」を訪れます。

鳥羽山城は、東西500m以上におよぶ標高108mの独立丘陵上に築城されました。
二俣城とは500mほどの至近距離にあります。ここで徳川と武田の攻防戦が繰り広げられたんですね…。

いまは鳥羽山公園として整備されていますが、いくつか城の遺構も残っています。
まずは大手道入口の石段を登って城跡へ。すると石垣と石畳が敷き詰められた大手道が広がりました。

付城(前線基地)としては荘厳ですよね…。これは、家康の関東移封ののちに領主となった堀尾氏によって整備されたものと考えられます。
堀尾氏は二俣城と鳥羽山城を領有し、二俣城には軍事機能を持たせ、鳥羽山城は迎賓機能を備えた居館として使用したと推察されます。

実際に発掘調査で、鳥羽山城からは染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器などが発見されています。
大手道を通ると、曲輪跡と思しき場所や石垣桝形門跡がありました。こちらも、原型は徳川時代としても、整備が進んだのは堀尾時代と考えられます。

さらに進んで、本丸跡へ。そこには美しい緑の平原が広がっていました。
公園整備時に多少は加工されているのでしょうが、それにしても立派。ここなら家康も相当な兵を詰めることが出来たのではないでしょうか。

その一角には、山城の本丸には珍しい枯山水庭園の遺構もあります。
こちらは昭和49・50年の発掘調査で発見されたもの。この庭園遺構からも、鳥羽山城が迎賓機能を備えた居館であったことが推察されます。

他にも、搦手門跡や土塁跡、笹曲輪跡、腰巻石垣など、城の遺構を見ることができます。
徳川時代の戦国の城堀尾時代の迎賓の城とが混在している感じ。それぞれの時代に思いを馳せるのもいいかもしれません。

さて、戦国時代に思いを馳せると、この鳥羽山城を拠点として家康は二俣城を攻略しました。
この後、家康は一つ一つ武田方の城を攻め落としていくのです。そんな戦国の勢力図が変わる転機となった城「鳥羽山城」を今日は訪れました。

■基本情報

名称:鳥羽山城跡(鳥羽山公園)
住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
アクセス:天竜浜名湖鉄道「二俣本町」駅から徒歩約20分

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