家康を辿る城旅「諏訪原城」!徳川武田攻防の城、圧巻の中馬出を見よ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「諏訪原城」!徳川武田攻防の城、圧巻の中馬出を見よ…です。

■諏訪原城をめぐる物語

武田信玄が没しても、武田の勢力は大きく衰えることはありませんでした。
跡を継いだ武田勝頼は、積極的に他国の領土に侵攻。隣接する徳川領にも侵出しました。

勝頼は、重臣・馬場信春に命じて、大井川の西側(遠江側)に城を築かせました。
それが、天正元年(1573年)に築城された諏訪原城です。ここを足場に勝頼は遠江への攻勢を強めます。

翌天正2年(1574年)には、父信玄ですら落とせなかった高天神城の攻略を成功させます。
難攻不落として知られていた高天神城を落としたことで、武田勝頼の名は全国に轟きました。

ところが天正3年(1575年)、長篠・設楽原の戦いで武田軍が織田徳川軍に惨敗を喫します。
徳川家康は直ちに反攻に転じると、三河・遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出します。そして二俣城に攻め寄せると、諏訪原城も包囲しました。

堅城を誇る諏訪原城は、1か月余りも徳川方の猛攻をしのぎましたが、頼みとした勝頼からの援軍は届かず、ついに力尽きます。
武田方の将兵は諏訪原城を脱すると、東の小山城へ逃れました。こうして、諏訪原城は徳川軍の手に落ちました。

(諏訪原城跡の碑)

■諏訪原城

家康を辿る城旅…。今日は、徳川武田攻防の城、諏訪原城を訪れます。
続日本100名城にも数えられる名城。戦国ファンにはたまらない、合戦を視野に入れた様々な築城術が施された城です。

その最大の見どころと言えるのが、三日月堀と曲輪(平坦地)がセットになった「丸馬出」です。
曲輪の外側に三日月形の空堀を掘ることで敵が真正面から侵入するのを防ぎ、さらに味方が出撃する際の拠点にもなる場所で、武田流築城術に見られる造りです。

(二の曲輪中馬出①)

諏訪原城には、日本最大級の丸馬出があります。それが「二の曲輪中馬出」
圧巻です…。とんでもない大きさ、しかもここまで良好な状態で残っているのも珍しい…。

(二の曲輪中馬出②)

ここがいわば「出城」の役割を果たしていたんですね。後方の二の曲輪とは土橋でつながっています。敵が来たときは、二の曲輪から兵が馬出に入ったのでしょう。
馬出と二の曲輪の間には大きな「外堀」が築かれています。仮に馬出が落とされても、この外堀が二の曲輪を守る仕組みです。

(丸馬出と二の曲輪を隔てる外堀)

二の曲輪中馬出と土橋でつながったところに「二の曲輪北馬出」があります。
その名のとおり城の北側を守る馬出(=出城)。発掘調査で門に使われた礎石が確認されたことから、「薬医門」が復元されています。

(二の曲輪北馬出)

さらに南側には「二の曲輪大手馬出」があります。こちらも二の曲輪とは外堀で隔たれ、土橋でつながっています。
馬出内には「諏訪神社」が建っています。もともとは武田勝頼が馬場信春に命じて築いた城…武田方の信仰篤い"諏訪大明神"を祀ったことから諏訪原城と名付けられました。

(二の曲輪大手馬出)

こうした丸馬出と外堀に守られているのが「二の曲輪」。広大な曲輪です…。
有事にはここに多くの兵が詰め、物資武具が置かれたのでしょう。中央部分には現在も仕切土塁が残っています。

(二の曲輪)

この城は、二の曲輪が敵方に攻め込まれても、まだまだ落ちません。
二の曲輪と土橋でつながって「本曲輪」があります。そして両曲輪の間には、大きな「内堀」があるのです…。

(本曲輪に続く土橋、内堀)

本曲輪は、富士山、大井川を望む高台にあります。城の背後は断崖絶壁…。
武田方は、こうした地形も生かして「後ろ堅固の城」を築きました。本曲輪から見る風景は絶景です。

(本曲輪、そこから見る風景)

これは戦国の城ファンにはたまらない城ですね。徳川と武田の合戦が目に浮かぶよう…。
なお、諏訪原城跡の南西側にある「諏訪原城ビジターセンター」では諏訪原城の歴史や構造に関する資料が展示されています。迫力満点のジオラマもあるのでおススメです。

(諏訪原城ビジターセンター)

■基本情報

名称:諏訪原城跡
住所:静岡県島田市 金谷
アクセス:JR金谷駅から徒歩20分

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