鎌倉腰越「満福寺」!義経が頼朝に宛てた腰越状、その思いも虚しく…

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、源義経が兄頼朝に宛てて綴った手紙「腰越状」、それを書いた場所とされる鎌倉市腰越「満福寺」です。

■腰越状

寿永4年/元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで、ついに源平合戦は終結
平家は滅亡…。源氏の棟梁・源頼朝は、鎌倉を拠点とした新しい武家政権を開きました。

壇ノ浦の戦いをはじめとする合戦において、天才的な軍略を発揮し源氏を勝利に導いたのが、頼朝の弟・源義経です。
京に凱旋した義経は、後白河法皇からその功を讃えられ、配下の御家人らとともに官位を授かりました。

これに激怒したのが源頼朝です。自身の承認も得ず任官した者たちを罵り、東国への帰還を禁じました。
さらに梶原景時から頼朝へ、平家追討の戦いにおける義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、その怒りは頂点に達しました。

義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送する名目で、鎌倉の頼朝のもとに向かいます。
しかし、怒りの収まらない頼朝は、義経の鎌倉入りを許しませんでした

腰越の地に留め置かれた義経は、兄頼朝に宛てて手紙をしたためました。
後に「腰越状」と呼ばれる弁明の手紙。その文面には、頼朝に対して自分に叛意のないことが切々と書き綴られていました…。

■満福寺

この「腰越状」をしたためた場所とされるのが、江ノ電の線路のすぐ脇にある「満福寺」(まんぷくじ)です。

境内には、義経と弁慶主従の像が建ってます。
そこに描かれているのは、義経の口述をもとに弁慶が「腰越状」をしたためている姿です。

その弁慶が座ったとされる「弁慶の腰掛石」や義経が手を洗ったと伝わる「義経手洗い井戸」
他にも「弁慶の手玉石」や「硯の池」など、義経・弁慶ゆかりの史跡があります。

寺には、この弁慶がしたためた書状に義経が筆入れして直したと伝えられる、腰越状の下書きが残っています。
なんと、この下書きは複製ではなく、本物なのだとか。ということは、義経と弁慶の肉筆…。

800年の時を経て残っているとは貴重ですね。
その書面からは、義経の悔しさや絶望、どうして認めてくれないんだという苛立ちのような感情がうかがい知れます。

「腰越状」による懸命の釈明もむなしく、結局、頼朝は義経の鎌倉入りを許しませんでした。
追い返された義経は、このとき頼朝を深く恨み、鎌倉に不満を持つ輩はついて来いと公言して、京に引き上げたと言われます。

これにより、両者の対立は決定的なものになりました。
やがて、義経は頼朝打倒の兵を挙げます。一方の頼朝も、自ら義経追討の兵を動員します。
兄弟の骨肉相食む争いは、こののち一切の弁明を許すことなく、激烈の途を辿ることになるのです…。

■基本情報

名称:満福寺(まんぷくじ)
所在地:神奈川県鎌倉市腰越2丁目4−8
アクセス:江ノ島電鉄「腰越」駅から徒歩3分
拝観時間:9:00~17:00
料金:大人200円、中学生100円、小学生以下無料

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