北条義時の居館跡「北条執権邸」!秘書官から執権へ…義時飛躍の地

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条義時の居館跡「北条執権邸」!秘書官から執権へ…義時飛躍の地です。

■北条義時

伊豆国の在地豪族・北条時政の次男、北条義時
姉政子が伊豆に配流されていた源頼朝と結婚したことから、運命が急転します。

治承4年(1180)頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義時も父時政、兄宗時とこれに従います。
石橋山の戦いで兄宗時が戦死しますが、義時と時政は頼朝を常に補佐し、甲斐源氏を味方に引き入れるなど功績をあげました。

頼朝は鎌倉に入り幕府を開くと、義時は頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれました。
この頼朝の親衛隊は「家子」と呼ばれましたが、中でも義時は「家子の専一」と称されるほど重用されました。今で言う、頼朝の秘書官のような存在であったと考えられます。

頼朝の死後、あとを継いだ頼家の独裁を押さえるために13人の合議制が敷かれると、その一人に選ばれます。
やがて幕府内の権力争いが先鋭化すると、時政と義時は有力御家人らを次々に排除し、将軍頼家をも追放、その後暗殺しました。

元久2年(1205)義時は、父時政を伊豆国に追放して、幕政の最高責任者として実権を握ります。
その権力は将軍家を凌ぐものとなり、義時は2代執権として、約130年続く北条執権政治の礎を築きました。

■北条義時起つ

源頼朝は、鎌倉に入ると、現在の鶴岡八幡宮の東側に広がる大倉郷に御所(大倉御所)を築きました。

頼朝に従う有力御家人たちも、大倉御所の近くに邸宅を構えました。
北条義時も、御所の南西に邸宅を築きました。それが鎌倉市小町にある「北条執権邸」(宝戒寺)です。

後に鎌倉幕府の最高権力者となる北条義時の邸宅…。かつては「小町亭」と呼ばれたそうです。
入口近くには、それを示す「北条執権邸旧蹟」碑が建っています。

義時は、はじめ父時政の忠実な配下として、その野望を手助けする役割を担ったと考えられます。
しかし、時政が将軍実朝を弑して、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと陰謀を張り巡らせると、父時政に離反

時政邸にいた将軍実朝を自邸に移し保護すると、父時政を伊豆国に追放しました。
義時が実朝を迎えた場所、同時に時政から実権を奪い取った場所が、ここ「小町亭」北条執権邸跡ということになります。

ついに、北条義時が歴史の表舞台に立ちました。
義時は、将軍を支える執権の座に就くと、実質的な幕府の最高権力者として幕政を掌握していったのです。

■北条執権政治

現在、その邸宅跡には「宝戒寺」(ほうかいじ)が建っています。
これは、建武2年(1335)に足利尊氏が建立したもので、北条一族の霊を弔っています。

(宝戒寺)

義時が礎を築いた北条氏による執権政治は約130年続きました。
義時以降代々の執権がここを住まいとしました。そういう意味では、この地は北条氏の聖地とも言えますね。

ここ鎌倉の地で絶大な権勢を誇った北条氏ですが、盛者必衰の理あり…。
元弘3年(1333)、ときの北条氏得宗家当主・北条高時が新田義貞に攻められ、一族870人以上と共に自刃。邸宅は戦火で灰燼に帰しました。

(宝戒寺境内)

境内に足を運ぶと、本堂や木々が立ち並んで、静寂に包まれた風景が広がっていました。
かつての北条氏の栄華を思わせるものは残っていません。北条氏の名残りがあるのは、門に記された北条氏の家紋「三つ鱗」…。

(宝戒寺入口)

そして、境内にひっそりと建つ「德崇大権現堂」という小さな社。
これは、最後の当主・北条高時を祀っています。高時が自害したとき、その歳は31才でした。

(德崇大権現堂)

今日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で一躍脚光を浴びる北条義時の鎌倉居館跡を訪れました。
父時政の陰謀を防ぎ、幕府の安定化を図る義時でしたが、鎌倉にはなお不穏な動きがうごめきます。それは、将軍実朝そして義時を巻き込んで、鎌倉を戦火に包むことになるのです…。

■基本情報

名称:北条執権邸跡(宝戒寺)
所在地:神奈川県鎌倉市小町3丁目5−22
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩13分
営業時間:9:30~16:30(10~3月は16時)

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