こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、源平を翻弄した「大天狗」後白河法皇ゆかりの京都へ。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!権謀術数が繰り広げられた「法住寺」、平清盛が献上した「三十三間堂」、後白河法皇の陵墓「法住寺陵」をめぐります。
■後白河法皇
後白河法皇は、鳥羽天皇の第4皇子として生まれました。
皇位継承とは無縁の立場で遊興に明け暮れますが、異母弟・近衛天皇の急逝により、突如皇位を継ぐことになりました。
この即位を発端として、皇族・公家・武家を巻き込んだ、保元・平治の乱がぼっ発します。
この乱で後白河は平清盛と結び自らの政敵を排除するとともに、平家はライバル源氏の一族をほとんど滅ぼしました。
当初、後白河と平家は協調関係にありましたが、平家の勢力が強大になると両者は次第に対立するようになります。
後白河近臣による平家打倒の謀議が発覚(鹿ケ谷事件)、さらに後白河による平家への圧迫が続くと、ついに清盛は実力行使に出ます。後白河を幽閉し院政を止めました。
その清盛も病により死去。後白河の第3皇子・以仁王が平家打倒の令旨を出すと、世は動乱の様相を呈します。
後白河は、この動乱を待っていたかのように謀略を巡らします。
平家の西走への同行を拒否、木曾義仲に与したかと思うと、頼朝に上洛を促します。
その後、頼朝の弟・義経を籠絡し兄弟との争いを助長させると、片や頼朝追討の、片や義経追討の院宣を出し、鎌倉方を翻弄します。
頼朝は、この過程で後白河に再三再四、征夷大将軍の役職を要望しますが、後白河はついに認めませんでした。
頼朝が征夷大将軍に任じられたのは、後白河の崩御後のことです。頼朝は後白河を「日本国第一の大天狗」と称しました。
■法住寺
それでは、源平合戦の時代を生き抜いた朝廷の権力者、後白河法皇ゆかりの地をめぐりましょう。
まずは、「後白河法皇御所聖跡」と称される「法住寺」へ。
後白河が院政をとった場所で、当時は御所「法住寺殿」と呼ばれていました。
ここでさまざまな権謀術数が繰り広げられたのですね…。
源平の時代を動かした場所と言えます。実際に後白河は、平家から義仲、さらには義経、頼朝ところころと組む相手を変え、武将たちを動かしました。
それが武将たちの怒りを買うこともしばしば。
義仲には法住寺殿を襲われ、焼き討ちに遭っています。後白河は脱出を図りますが、捕らえられ幽閉されました(鎌倉源氏軍により解放)。
法住寺の再建は、法皇の最後の組手・頼朝の資材援助によって進みました。
後白河は完成した御所に入ると間もなく息を引き取りました。御年66歳。その御陵「後白河天皇 法住寺陵」がすぐ近くにあります。
■三十三間堂
さらに、少し足を延ばして「三十三間堂」へ。
ここは元々、後白河法皇が院政をとった広大な法住寺殿の一画でした。そこに建てられた蓮華王院の本堂が三十三間堂です。
建立にあたっては、平清盛が資材援助しました。
このときは両者は互いに互いを利用する戦略パートナーのような関係。後白河は平家の財力を取り込み、清盛は朝廷工作を巧みに進めたと言えます。
内陣の柱間(はしらま)が33あることことから、「三十三間堂」と呼ばれています。
その長さはなんと120m。その内陣に1000体以上の仏像が安置されています(堂内は撮影不可)。
この空間が、後白河法皇がただひとりで祈りを捧げるための空間として建立されのです。
当時の法皇の権威がいかに高かったか分かりますね…。同時に、その権威を取り込む清盛のしたたかさも…。圧巻です。
後白河法皇は結局、源平の時代を生き抜きました。
自らが恃みとした平家、木曾義仲、源義経らの滅亡をぜんぶ見たんですね…。果たしてその心中はいかに。哀れと悲しんだのか、それともほくそ笑んだのか…。
今日の夢中は、後白河法皇ゆかりの「法住寺」と「三十三間堂」でした。
■基本情報
【法住寺】
所在地:京都府京都市東山区三十三間堂廻り655
アクセス:JR京都駅から徒歩15分
拝観時間:9:00~17:00
拝観料:無料
【三十三間堂】
所在地:京都府京都市東山区三十三間堂廻り657
アクセス:JR京都駅から市バスで10分
拝観時間:8:00~16:30
拝観料:600円