秀吉と光秀の天下分け目の天王山"山崎の戦い"!秀吉の本陣跡「山崎城」へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、秀吉と光秀の天下分け目の天王山"山崎の戦い"!秀吉の本陣跡「山崎城」へ…です。

■家康を辿る物語

明智光秀が本能寺で主君・織田信長を討ち果たしたころ…。
織田家の有力武将は、敵対する武将との合戦のため畿内から遠く離れていました。

彼らはすぐには動けまい…光秀はそう見て、その間に畿内を制圧するつもりでいました。
しかし光秀の意に反して、とんでもない速さで畿内に戻ってきた武将がいます。羽柴秀吉でした。

秀吉は中国で毛利と交戦していましたが、変報を聞くと急いで毛利と和睦
兵をまとめると畿内に取って返しました。世に言う「中国大返し」。3万人もの大軍がわずか1週間足らずで200㎞移動しました。

秀吉軍は京に入ると、天王山の麓・山崎に着陣。片や光秀軍も勝龍寺城近くに布陣、迎え撃つ構えをとりました。
天正10年(1582年)6月13日、ついに両軍が激突します。山崎の戦い、別名「天王山の戦い」とも呼ばれる一大決戦が、京都山崎の地で勃発しました。

■山崎城

奇跡的な速さで中国から畿内へ取って返してきた羽柴秀吉
明智光秀と雌雄を決するべく陣を敷いたのが、京都山城と摂津の国境にある天王山。当地を山城とした「山崎城」でした。

秀吉は、天王山の麓にある宝積寺に本陣を置いたとされます。寺伝によると奈良時代前期創建の古刹。
本堂脇には、山崎合戦の折に秀吉が腰を下ろして采配を振るったという石が残っています。その名も「出世石」。ここから秀吉は天下人にのし上がりました。

(宝積寺三重塔、出世石)

天王山中腹にも秀吉ゆかりの史跡があります。それが、秀吉が自軍を鼓舞するために旗を掲げたとされる「旗立松」
現在は6代目の松なのだとか。近くには「山崎合戦之地」と刻まれた石碑もあります。

(旗立松、石碑)

さらに「旗立松展望台」からは、山崎合戦の古戦場が一望できます。
"天王山の戦い"と呼ばれていますが、主戦場は淀川沿いでした。この眺望の左手前方に陣を敷いた光秀軍を、右側および下側から秀吉軍は攻めたてました。

(旗立松展望台)

なお、この天王山は標高270mあります。山道や石段を歩くと30分ほどして山頂に辿り着きました。
ここに本丸もあったとされます。秀吉は、山崎の戦いの後、大阪城を築城するまでここを本拠としました。

(山頂、本丸跡)

■古戦場跡

旗立松展望台から見下ろした山崎合戦の古戦場
両軍が激戦を繰り広げたとされる場所が公園(天王山夢ほたる公園)として整備されています。

(天王山夢ほたる公園)

広場には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された石碑が建ちます。
さらにその背後には、秀吉が本陣を置いた天王山を仰ぎ見ることができます。

(古戦場石碑、天王山)

光秀軍は、天王山と淀川の間の狭い道を出てくる秀吉軍を各個撃破する作戦をとりました。
しかし、当地は沼地が広がっていました。そのため光秀軍の精鋭をもってしても秀吉軍の先手を崩すことができませんでした。

(天王山掲示の「秀吉の道」より)

やがて戦況は秀吉優位に大きく傾いていきます。はたして光秀の運命は…?
秀吉と光秀の天下分け目の天王山、山崎の戦い。続きはまた次回の当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」で綴ります。

■基本情報

【山崎城(宝積寺)】
住所:京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原
アクセス:JR山崎駅から徒歩10分

【山崎合戦古戦場跡】
住所:京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田
アクセス:JR「山崎」駅から車で約5分

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