家康を辿る城旅「小川城」!家康決死の"伊賀越え"を援けた甲賀信楽の山城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「小川城」!家康決死の"伊賀越え"を援けた甲賀信楽の山城です。

■家康を辿る物語

天正10年(2582年)6月2日、驚天動地の事件が発生します。
本能寺の変…。織田信長が、家臣の明智光秀により討ち取られたのです。

このとき徳川家康は、信長の招きで安土城で歓待を受けた後、大阪堺の町を遊覧中でした。
供回りはわずかな人数…。狼狽した家康は信長の後を追おうとしましたが、家臣に制止されたと伝わります。

家康は、堺から急ぎ三河に戻るために、決死の逃避行に入ります。
光秀は信長の同盟者である家康も狙っています。さらに落ち武者狩りを狙う暴徒もいました。実際に、家康と別の道を選んだ穴山梅雪は土民一揆に遭い殺されました。

家康は、京都周辺や東海道・中山道など主要街道を避け、伊賀を超えて伊勢から三河に向かう道を選びました。
後に言う「神君伊賀越え」。家康三大危機に挙げられる危険な逃避行でした。

伊賀にゆかりのある服部半蔵や茶屋四郎次郎が現地の土豪を懐柔したおかげで、家康はなんとか三河に帰国しました。
信長の死により、鎮まるかに見えた戦国の世は、新たな戦雲を巻き起こすのです…。

■伊賀越え

家康の三大危機に数えられる「神君伊賀越え」
織田信長が討たれるという驚愕の事態を受け、家康一行が本領三河へ決死の逃避行を図ったものです。

家康の帰還ルートは諸説ありますが、京都の宇治田原に入った家康一行は、信楽街道を通過して、甲賀信楽の小川城に一泊したとされます。
このとき小川城主の多羅尾光俊は、家康一行を招き入れ歓待すると、さらに伊賀越えに甲賀衆を付け道中警護したと伝わります。

今日は、そんな伊賀越えの要所となった小川城を訪れます。
小川城は、現在の滋賀県甲賀市信楽町の南西、小高い山(小川城山)にかつてありました。

山城ということで、恒例の山登りでの城跡めぐりになります。
鬱蒼と木々が茂る坂道を進んでいきます。今では往時の面影はありませんが、険しい山と川…天然の要害であったことが偲ばれます。

ところどころにある案内板を頼りに、ようやく山頂付近にたどり着くと…。
そこには、曲輪跡とおぼしき遺構が残っていました。土塁や空堀の跡も状態が分かりやすく残っています。

往時はこの辺りに建物もあったと思われます。多羅尾光俊はここで家康一行を歓待したのでしょうか…。
伝承によると、光俊は家康らにまず赤飯を提供しました。すると一行はそれを一気に平らげたといいます。

相当空腹だったのでしょうね…。決死の逃避行の中で、家康一行はひとときの安息を得られました。
多羅尾光俊は、後に伊賀越えの際の功労から、山城・近江国内に所領を与えられました。

(山頂部からの眺望)

家康一行はその後、難所の伊賀を超えて伊勢へたどり着きます。そこから舟で伊勢湾を渡って、三河に帰国したとされています。
九死に一生を得た家康…。そして、信長を失い混迷を深める戦国で、その存在感を大きく増していくことになるのです。

■基本情報

名称:小川城跡
住所:滋賀県甲賀市信楽町 小川城跡
アクセス:新名神高速道路・信楽ICから車で25分

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