歴史を揺るがす謀反劇「本能寺の変」!織田信長、明智光秀に討たれ死す

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、歴史を揺るがす謀反劇「本能寺の変」!織田信長、明智光秀に討たれ死す…です。

(本能寺本堂)

■家康を辿る物語

天正10年(1582)6月1日、明智光秀は約1万3000人の兵を率いて丹波亀山城を出陣。
中国毛利攻めの援軍として出発しましたが、途中で進路を変更します。

「敵は本能寺にあり」
光秀は重臣らに主君・織田信長を討つ決心を明かすと、信長の滞在する本能寺へ向かいます。

翌日未明、光秀率いる1万3000人の軍勢は、本能寺を完全に包囲しました。
対する織田信長は、護衛として同行させた家臣らわずか150人ほど…。槍や弓などの武器しかなく、鉄砲などを装備した光秀軍を前に、なす術もありませんでした。

もはやこれまでと悟った信長は、寺に火を放って、自害して果てました
疾風の如く戦国を駆け抜け、天下統一を目前にした信長49才。壮絶な最期でした…。

■本能寺

戦国史に残る衝撃の謀反劇「本能寺の変」
天下統一を目前にした織田信長が、家臣の明智光秀に討たれました。

その舞台となった本能寺は、応永22年(1415年)創建の法華宗本門流の大本山。
現在の本能寺は京都市中央区下本能寺前町にあります。当地を訪れると、ビルが建ち並ぶ一角に荘厳な山門がありました。

山門をくぐると、目の前にあらわれる重厚な伽藍…本能寺の本堂です。
さすがは創建600年を超える歴史ある寺院。なんでも現在の住職は140世になるのだとか。

本堂の裏手に足を運ぶと、そこにありました。戦国の英雄・織田信長の廟所が…。
明智軍に襲われた信長は火を放って自害したと言われます。ただ遺体は発見されず、その最期は明らかではありません。

この謀反のあと、信長の三男・織田信孝が光秀を破って京に入城。
信孝は、本能寺の焼け跡に墓所をつくるよう命じました。それが今につながる信長公廟です。

■もう一つの本能寺跡

本能寺と信長公廟を参拝したところで、もう一つの本能寺跡に向かいましょう。
実は、本能寺の変があった当時の本能寺は、現在の場所にはありませんでした

現在の寺域は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命により移築されたもの…。
実は本能寺は、災禍に巻き込まれるなどして4度ほど場所を移しています。堂宇は7度も再興しているのだとか…。

では、本能寺の変のときに寺域がどこにあったのかというと、現在の本能寺から西へ2㎞ほど…。
元本能寺南町辺り…いまは住宅が建ち並ぶ一角に「此付近本能寺址」の石碑があります。

当時は、今の本能寺よりもっと広い寺域を有していたといいます。
寺の周りを高い塀と深い堀で囲っていたのだとか。そりゃそうだよな、天下の信長が宿所としたのだから。

しかし本能寺の変のとき、信長は寡兵…。しかも思いもよらぬ光秀の急襲に「是非に及ばず」…手の打ちようがありませんでした。
当地には、先ほどの石碑のほかにも"本能寺跡記"を刻んだ「本能寺跡」の碑も建っています。


織田信長死す…。急転直下の事態に、歴史は大きくうねり動きます。
信長を討った光秀は、信長の嫡男・信忠も討ち取ります。そして、その矛先を、信長の盟友・徳川家康に向けたのです。

このとき、家康はわずかな供回りで大阪堺をめぐっていました。果たして家康の運命はいかに…?
家康にふりかかる危機については、また次回の当ブログで綴ることにいたしましょう。

■基本情報

【本能寺/信長公廟】
住所:京都府京都市中京区下本能寺前町522
アクセス:地下鉄東西線 「市役所前駅」すぐ
参拝時間:午前6:00〜午後5:00

【本能寺跡】
住所:京都府京都市中京区元本能寺南町
アクセス:四条大宮駅から徒歩10分

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