しづやしづ…悲運の舞姫「静御前」義経を恋い慕う決死の舞い

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、源義経が愛した舞姫「静御前」ゆかりの地へ。
埼玉県久喜市栗橋にある「静御前の墓」です。

■静御前

静御前(しずかごぜん)は、京の白拍子(男装の舞姫)。源義経の愛妾です。
白拍子を始めたとされる礒禅師の一人娘として生まれ、長じて京にその名を知られる美しい舞姫となりました。

寿永元年(1182)、後鳥羽上皇が白拍子を集めて「雨乞いの舞い」を催したとき、静が舞うと空がにわかに曇り雨が降り出したと伝わります。
この頃、京にいた義経と出会い、その寵愛を受けるようになりました。

その後、義経は兄頼朝と対立して、京を離れます。静御前も義経と行動を共にしました。
しかし苦難の旅のなか、吉野山で義経と別れると、京に戻る途中で捕らえられました。

(JR栗橋駅にある静御前の肖像画)

鎌倉に送られた静御前は、頼朝に鶴岡八幡宮で白拍子を舞うように命じられます。
すると静は、次の歌を謡いながら、決死の舞いを踊りました。

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
(静よ静よと繰り返し私の名を呼んだあの人が輝かしかった頃に今一度、戻りたいものです)
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)

どちらも義経を恋い慕う内容で、頼朝は激怒しました。
しかし妻政子が、「私が御前だったとしてもあのように謡うでしょう」と取りなして、命を助けられました。

しかしながら、彼女のなかに宿っていた義経の血は許されませんでした。
静はこのとき、義経の子を妊娠していました。頼朝は、女子なら生かすが、男子なら殺すと命じます。生まれてきた子は、男子でした…。

義経と静の子は、生まれて間もなく、鎌倉の由比ガ浜に沈められました…。
その後の静御前がどうなったのか、いつ頃まで生きたのか、記録は何も残っていません

■静御前の墓

静御前の後半生については、公式に記されたものはありません。
ただ、埼玉県久喜市栗橋に、悲運の舞姫・静御前の伝説が残っています。

もともとの地名は「静村」。市町村合併によりその名は消えましたが、静御前の没地という謂れが残る地です。
当地には、その静が眠っているという「静御前の墓」があります。

(静御前の墓)

諸説ある静御前の晩年ですが、当地にある案内板にはこのように記されています
「静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で"義経討死"の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京に戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189年)9月15日、この地で死去したと伝えられています」。

(「静女之墳」の墓石と静御前のレリーフ)

静の義経に対する恋慕の情を思うと、ありうべしですよね…。案内板の説明は続きます。
「侍女琴柱(ことじ)がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803年)5月、関東郡代中川飛騨忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられます」。

(旧墓石)

もちろん、公式な資料がないので、あくまで伝承。静御前の墓とされるものは他の場所にもあります。
ただ、どれが本物かとか正統争いみたいなの、意味ないと思うんですよね。大切なのは、静御前という女性が、歴史のなかに存在して、ときの権力に抗うような舞いを踊ったこと…。

(義経招魂碑と静女所生御曹司供養塔)

それすら伝承と言われるならぐうの音も出ませんが、その伝承が今も私たちの心を打つのは、単に亡びゆく者への哀れみではなく、利害得失じゃなくて純粋に愛に生きようとした者への共感じゃないかと思うんです。

(鎌倉満福寺の襖絵/(左)吉野山の別れ、(右)旅立ちの静)

自身もかくありたい。やっぱり、女性の方が強いのかな…。
この日その墓前に立ち、あらためて静御前という女性にとてつもない共感と尊敬の念がわき上がるのでした。

今日の夢中は、静御前ゆかりの地、埼玉県久喜市栗橋にある「静御前の墓」でした。

■基本情報

名称:静御前の墓
所在地:埼玉県久喜市栗橋中央1丁目2−7
アクセス:JR栗橋駅から徒歩1分


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