埼玉深谷「畠山館跡」!"武士の鑑"畠山重忠の男気あふれる生き様

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。今は「鎌倉殿の13人」に夢中…。
今日の夢中は、埼玉深谷「畠山館跡」!"武士の鑑"畠山重忠の男気あふれる生き様です。埼玉県深谷市にある「畠山重忠公史跡公園」を訪れます。

■畠山重忠

畠山重忠(はたけやましげただ)。
知勇兼備の武将として知られ、清廉潔白な人柄から「武士の鑑(かがみ)」と称される武将です。

畠山氏は、坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国畠山郷(現在の埼玉県深谷市)を根拠に勢力を拡大していった豪族です。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵すると、はじめは平家方に与して三浦氏の衣笠城などを攻めますが、その後頼朝のもとに帰参します。

武勇に秀で芸術の素養もあった重忠は、頼朝の信を得て重用されます。
木曾義仲との戦いや、一ノ谷の戦いなどの源平の合戦、奥州合戦などで数多くの武功を挙げます。
一方で、義経の妾・静御前の舞にあわせて銅拍子を打つなど謡曲の才も披露しました。

頼朝が幕府を開いて間もない頃、部下が犯した罪で囚人として拘束されると、重忠はこれを恥じて絶食します。
頼朝は重忠の武勇を惜しんで赦免。しかし梶原景時に「重忠に謀反の疑いあり」と讒言され、鎌倉に召喚されます。

このとき重忠は起請文を差し出すように求められましたが、「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と拒否しました。
頼朝はこれを聞いて、その忠心に感じ入り、重忠に褒美を与え帰しました。

■畠山館跡

その豪勇と誠実な人柄から「武士の鑑」と称される畠山重忠
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の中川大志さんが見事に演じていますね。

畠山氏の居館「畠山館」があったとされるのが武蔵国畠山郷。現在の埼玉県深谷市畠山一帯です。
この地で重忠も生まれ、畠山氏の当主へ、そして鎌倉幕府の有力御家人へと成長していきました。

現在は、畠山重忠の館跡を示す遺構は残っていませんが、その地は「畠山重忠公史跡公園」として整備され、重忠の名を今の時代に伝えています。

園内には、重忠ゆかりの史跡があります。圧巻なのは「愛馬を背負う畠山重忠像」
これは、一ノ谷の戦い「鵯越の逆落とし」での名シーン。このとき、重忠は愛馬・三日月を背負って崖を降りたと伝わります。この剛勇さとやさしい人柄が「武士の鑑」として人々を惹きつけました。

さらに、その重忠の「産湯の井戸」と伝えられる古井戸跡があります。
この畠山の地に居を構えたのは重忠の父重能(しげよし)。重能は幼い源義仲が源義平(頼朝の兄)に殺されそうになった時に木曽に逃した人物としても知られています。父子とも人格者ですね…。

頼朝から厚い信任を受け、多くの鎌倉武士から尊敬を集めた畠山重忠。
しかし、その重忠も陰謀の渦に巻き込まれて命を落とします…。園内には、重忠の墓と伝わる五輪塔がありました。六基の塔が建っていますが、中央が重忠のものとされます。

さて、「武士の鑑」と誰もが讃える畠山重忠は、なぜ死ななければならなかったのか
なぜ鎌倉の陰謀に巻き込まれたのか?そして、重忠の命を奪ったのは誰か…?それはまた次回の「夢中図書館 いざ城ぶら」で…。

■基本情報

名称:畠山重忠公史跡公園
所在地:埼玉県深谷市畠山510−2
アクセス:秩父鉄道武川駅から3km(車で約10分)

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