城ぶら「梶原景時館」!佞臣か忠臣か?鎌倉殿を援けた梶原景時の栄光と滅亡

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、城ぶら「梶原景時館」!佞臣か忠臣か?鎌倉殿を援けた梶原景時の栄光と滅亡です。

■梶原景時

治承4年(1180)、平氏打倒の兵を挙げた源頼朝でしたが、石橋山の戦いに敗れ山中に逃れます。
このとき平氏方だった梶原景時は、洞窟に隠れる頼朝を発見しますが、これを見逃して命を救いました。

その後、安房で再挙を果たした頼朝と対面すると、降伏を許され御家人に列せられます。
それどころか、頼朝から厚い信任を得て腹心となり、鎌倉幕府の土台づくりに貢献しました。

その働きぶりは、侍所別当といった幕府の要職だけでなく、頼朝の密命を帯びた暗殺といった裏舞台まで多岐に及びます。
特に、源義経との対立は史書にも記されており、「梶原景時の讒言」と呼ばれる報告は、頼朝による義経追討を決定的なものにしました。

正治元年(1999)正月、源頼朝が死去。「鎌倉殿の13人」と呼ばれる13人合議制が置かれると、景時もそれに列します。
しかし、頼朝という後ろ盾を失った景時に対する反感が表面化。御家人66人連名による景時排斥の連判状が出されると、景時は鎌倉から追放され、所領の相模国一之宮(現寒川町)に退きました。

翌正治2年(1200)正月、景時は一族とともに上洛すべく一之宮を出立
しかし、駿河国清見関(現静岡市)で在地の武士と遭遇。交戦の末、付近の山中で一族とともに自害しました。

■梶原景時の館跡

それでは、「鎌倉殿の13人」の一人、梶原景時の館跡をぶら歩きしましょう。

梶原景時の居館があったとされるのが、相模国一之宮の地(現在の寒川町)です。
JR寒川駅から歩いて10数分のところに、その所領の名残りとされる史跡があります。

今は、一之宮天満宮が祀られているところ。ここが梶原景時館跡と伝わる場所です。
鳥居をくぐるとそこに、「梶原景時館址」の石碑が建っています。

景時の館の規模は広大だったという説もあり、堀の名残りと思しき跡も残っています。
この天満宮のある場所は、当時は物見のあった所と言われています。

敷地内にある天満宮は、梶原氏の風雅をたたえ、里人によって創建されたと伝えられます。
梶原景時は武勇に秀でているだけでなく、和歌などにも通じた教養人でした。その才能は、頼朝に愛されただけでなく、里のひとの尊敬も集めていたのかもしれませんね。

一之宮天満宮の近くに、「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」があります。
この石造物群は、梶原景時一族郎党を一之宮館の留守居役だった家族・家臣が弔ったものと伝えられます。また、景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣7人が、折を見て復権・所領安堵を願い出たものの許されず、自害したためそれを弔ったとも言われます。

■梶原景時の菩提寺

梶原景時の菩提を弔う寺社が東京都大田区にあります。
それが「萬福寺」です。山門の脇には、源頼朝が梶原景時の子景季に与えたという名馬「磨墨」(するすみ)の像が置かれていました。

この寺は、鎌倉時代の初期に梶原景時が源頼朝の命によって建立したもの。
元は品川区大井にありましたが、火災に遭い、現在の地に移され再建されました。

本堂の前には、梶原景時由緒の石板が飾られています。
描かれているのは、石橋山の戦いに敗れ洞窟に隠れている源頼朝一行。これを景時が救ったという言い伝えを記したものです。

その梶原景時の墓所が境内の墓地にあります。
景時の墓とされる五輪塔が祀られており、「当山開基梶原景時公菩提塔」という石碑も建っていました。

なお、梶原景時は各地に所領を持っていたため、屋敷跡や墓地も複数あります。源頼朝の寵臣として絶大な権勢を誇っていたんですね…。
源義経との対立から、どうしても悪者イメージの強い景時。しかし近年では「頼朝のために進んで憎まれ役を買っていた」という擁護論も出ています。

梶原景時は、佞臣だったのか忠臣だったのか…。
その没落があまりに急で、容赦ないものだったため、それを明らかにする証跡は残っていません。

■基本情報

【梶原景時館址】
名称:梶原景時館址(一之宮天満宮)
所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8-6
アクセス:JR寒川駅から徒歩11分

【萬福寺】
名称:萬福寺
所在地:東京都大田区南馬込1-49-1
アクセス:JR大森駅から徒歩21分



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