栄華を極めた平家の嫡流ここに絶つ…平六代の最期「六代御前の墓」

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全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、栄華を極めた平家の嫡流ここに絶つ…平六代の最期「六代御前の墓」です。

■平六代

平高清。平安末に栄華を極めた平家一門の嫡流です。
父は平維盛。平清盛の曾孫に当たる人物です。

幼名は「六代」。平家隆盛の基礎を築いた平正盛から数えて六代目となることから名付けられました。
「平家物語」で幼名の六代が用いられているため、一般に「平六代」の名前で呼ばれます。

六代が10歳のときに、木曾義仲の攻勢を受けて、平家は都落ちを決断。
父維盛は、妻を西国に落ち延びさせるのは忍び難いとして、妻子を都に残して西走します。

平家物語(池澤夏樹個人編集)

六代は母とともに京に潜伏していましたが、平家滅亡後の鎌倉方の捜索によって捕らえられます。
清盛の曾孫に当たることから本来斬首となるところでしたが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れ、その身柄は文覚に預けれられることになりました。

文治5年(1189年)、文覚に伴われ神護寺に入り剃髪、妙覚と号します。
建久5年(1194年)には大江広元を通じて源頼朝と謁見。謝恩を述べるとともに異心がないことを伝えると、頼朝もこれを認めました。

この後、六代は全国各地を行脚し修行に励みましたが、突如彼の運命が暗転します。
頼朝の死後、庇護者であった文覚が京の政変(三左衛門事件)に連座して流罪となると、六代も捕らえられます

「さる人の子なり、さる人の弟子なり、たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」 (「平家物語」)と二代将軍・頼家に謀反の疑いをかけられ、鎌倉に送られると、田越川の畔で処刑されました。
ここに、平清盛の嫡流は断絶しました。なお、六代の没年については諸説あります。

(田越川/逗子市)

■六代御前の墓

平家最後の嫡流、平六代
その墓所「六代御前の墓」は、逗子の地にあります。

JR逗子駅を降りて、歩いて15分ほど。
清らかに流れる田越川沿いに、「六代御前最後之故址」の石碑が建っていました。

そこに刻まれた碑文を読むと…。六代が処刑された当地は時代とともに宅地開発が進み、その痕跡を留めなくなっていました。
すると、この一帯で交通事故が頻発、複数の近隣住民が平家公達の夢を見るという事象が起こったため、供養塔を築き法要を行ったとのこと…。

ぶるっ…おそるべし平家嫡流の霊魂。いまは安らかに眠られんことを祈るばかりです…。
その六代を祀る墓所は、この田越川添いの石碑のすぐ近く、緑に覆われた小さな丘にあります。

階段を登っていくと、大きな欅の木のふもとに、古い墓碑がありました。
ここが平家最後の嫡流・六代が眠る「六代御前の墓」…。いまは当地の守り神のように、逗子の街を見渡せる場所に鎮座していました。

平家嫡流として生まれたばかりに、一介の僧としても生きることが許されなかった平六代
最後のとき、彼の胸に渡来したのはどんな感情だったのでしょう…。諸行無常の思いだったのか、源氏に対する恨みだったのか。ここで、平家嫡流の血は途絶えました

■基本情報

名称:六代御前の墓
所在地:神奈川県逗子市桜山8丁目2−1−7
アクセス:JR逗子駅から徒歩15分

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