雪の降る日の悲劇…源実朝、凶刃に斃れる。鶴岡八幡宮と実朝2つの墓

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、雪の降る日の悲劇…源実朝、凶刃に斃れる。鶴岡八幡宮と実朝2つの墓です。

■実朝暗殺

建保7年(1219)正月27日、雪の降る日…。
この日、鎌倉の鶴岡八幡宮で、3代将軍・源実朝の右大臣就任を祝う拝賀式が行われました。

将軍御所から鶴岡八幡宮へ、実朝をはじめ公家や御家人らの華々しい行列が進みます。
その佳境、実朝が神前に右大臣就任を報告し、石段を降りようとしたそのとき…。

突如、脇の銀杏の木から僧形の武者が躍り出て、実朝の行列に襲い掛かります。
「親の仇はかく討つぞ」…僧形の武者はそう叫んで実朝を斬りつけ、その首を打ち落としました。

実朝を襲ったのは、2代将軍であった兄頼家の遺児・公暁でした。
源氏相克の悲劇再び…。この日降り積もった雪は、源氏最後の将軍の血で赤く染まりました…。

■鶴岡八幡宮と実朝の墓

3代将軍・源実朝が暗殺されました…。
その悲劇が起こったのは、約800年前の鎌倉、雪の降る日の鶴岡八幡宮でした。

鶴岡八幡宮は、河内源氏の棟梁・源頼義が康平6年(1063)、前九年の役の戦勝を祈願して、八幡神を鎌倉由比ヶ浜に祀ったことに起源を発します。
治承3年(1180)、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝が現在の地に遷し、武家の崇敬を集める場となりました。

まさに源氏にとっては聖地ともいうべき場所…。
3代将軍実朝も、武士初となる右大臣就任という名誉を報告するために鶴岡八幡宮を訪れました。

そこで惨劇が起きました…。実朝が甥の公暁に襲われ落命
源氏の始まりの場所が、源氏嫡流将軍の最期の場所となりました。

その源実朝の墓(供養塔)と伝わる五輪塔が、鎌倉の寿福寺にあります。
寿福寺は、源頼朝の死の翌年に、妻の北条政子が頼朝の菩提を弔うために開きました。

本殿の裏手にある墓地のなかに、源氏最後の将軍・実朝の墓があります。
中世のものとされるやぐらの一つ、そこに五輪塔がひっそりと祀られていました。

■実朝の首塚

もう一つ、源実朝の墓とされる場所があります。それが、秦野市にある源実朝公御首塚です。
実は、鶴岡八幡宮での惨劇のあと、実朝の首は行方知れずとなりました。

伝承によると、その首は、三浦義村の家臣・武常晴(たけつねはる)が当地に運び、同地を治める波多野氏に頼み埋葬したとされています。
謎が多いですね…。常春は公暁の討手の一人なので、公暁が持ち去った実朝の首を手にする機会はありました。ただ、なぜ鎌倉から遠く離れた秦野に運んだのか…。その謎は今も不明なままです。

当地近辺で行われた発掘調査では鎌倉時代の遺構・遺物が検出され、波多野氏館との関係が指摘されています(東田原中丸遺跡)。
伝承では、埋葬された実朝の首は、実朝が帰依する僧・退耕行勇によって手厚く供養されたと言われます。


歌人将軍と称されるほど、和歌を愛した心やさしい将軍、源実朝
暗殺当日、拝賀式にのぞむ前に、庭の梅の木を見た実朝が詠んだとされる句があります。

出でいなば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

出て行って主人のいない家となっても、軒端に咲いている梅よ、春を忘れずに花を咲かせてくれ。
まるで、その後に起こる悲劇を予測していたかのような、辞世の句です。

3代将軍・源実朝死す…。享年28歳でした。

■基本情報

【鶴岡八幡宮】
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩10分

【寿福寺(源実朝の墓)】
住所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7 寿福寺
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩8分

【源実朝公首塚】
住所:神奈川県秦野市東田原1012
アクセス:小田急秦野駅からバス

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