鎌倉比企ヶ谷「妙本寺」!鎌倉殿をめぐる悲劇…比企一族ここに滅ぶ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉比企ヶ谷「妙本寺」!鎌倉殿をめぐる悲劇…比企一族ここに滅ぶ…です。

■比企の乱

比企の乱
建仁3年(1203年)、のちにそう呼ばれる政変がぼっ発しました。

ときの鎌倉幕府は、13人の合議制が敷かれ、政治の実権は将軍から有力御家人の手に移っていました。
なかでも、大きな権力を持っていたのは、北条氏と比企氏…。

特に、鎌倉殿・源頼家の乳母父を務める比企氏の権勢は日に日に増していきました。
当主の比企能員(ひきよしかず)は、頼家の側室とした娘若狭局が嫡男一幡を産んだことから将軍外戚となり、その権力は北条氏を凌ぐほどに…。

そんな中、頼家が急病で倒れ、危篤状態に陥ります。焦眉となったのが、次の鎌倉殿は誰か?頼家の後継問題でした。
ここで北条時政は、頼家の嫡男一幡と頼家の弟実朝への分割相続を決定します。実朝の乳母を務めるのは、時政の娘でした…。

これに不満を持ったのは、比企能員。病床に伏していた頼家に報告すると、時政追討の命を受けます。
しかしその密談は、障子の影で立ち聞きした北条政子から時政に知らされました。そして、そのときがやって来ます…。

建仁3年(1203年)9月3日。北条時政は仏事にこと寄せて、比企能員を名越の自邸に呼び寄せます。
密議が漏れていることを知らない能員は、一族の制止も聞かず、「行かなければかえって怪しまれる」と時政の屋敷に向かいます。

能員が門を通って屋敷を入ったところを、待ち構えていた時政の手勢が襲います。
天野遠景・仁田忠常に左右の手を取り押さえられると、能員は引き倒されて刺し殺されました

能員謀殺の知らせを受けた比企一族は、一幡の屋敷である小御所に立て籠ります。
しかし、北条義時率いる大軍に攻められると、屋敷に火を放ちことごとく自害。一幡も焼死しました。このとき一幡は6歳でした…。

■妙本寺

鎌倉を囲む丘陵の南東に「比企ヶ谷」(ひきがやつ)という谷があります。
その名は、鎌倉初期にこの地に屋敷を構えた比企氏に由来します。

武蔵国比企郡を本拠とする比企能員は、ここに鎌倉の拠点を置き、絶大な権勢を誇りました。
そしてここで、北条氏を中心とする大軍に攻められ、比企一族は滅亡しました(比企の乱)。

いまその地に建つのが「妙本寺」(みょうほんじ)です。
創建は文応元年(1260年)。乱から逃れていた末子能本(よしもと)が日蓮聖人に帰依し、一族の霊を弔うお堂を建てたのが始まりといわれています。

(左:総門、右:日蓮聖人像)

緑の生い茂った参道、美しい朱色の二天門を通って、境内へ…。
目の前に建つのは、日蓮聖人を祀る「祖師堂」です。なんだか心が癒される感じ。とても静かで、とても美しい寺社です。

(左:二天門、右:祖師堂)

しかし、今から800年以上前、ここが悲劇の舞台となりました…。
その悲劇の歴史を忘れさせないかのように、祖師堂の横に、比企一族の供養塔が建っています。
当主の能員をはじめ、この地で非業の死を遂げた比企一族の菩提が祀られています。

さらにその近くには、悲運の将軍嫡子・一幡の袖塚があります。
焼死したとされる一幡。焼け跡から見つかった、一幡のものとされる小袖を供養する袖塚です。
なお、一幡については母に抱かれ逃げ延びたものの、間もなく北条義時の手の者によって刺し殺されたという説もあります(「愚管抄」)。

一幡の母・若狭局の墓所も近くにあります。将軍の母になるはずが、一転して命を落としました。
無念の思いが強かったのか、その霊が北条政村(後の七代執権)の娘に憑りついて苦しめました。そのため、若狭局を祀る社が建立されました。それが「蛇苦止堂」(じゃくしどう)。総門の左手奥にあります。

(左:若狭局の墓、右:蛇苦止堂)

こうして、ライバル比企氏を滅亡させた北条氏…。
その刃はなお鞘におさまらず、幕府内部の有力御家人へ、さらには主君である鎌倉殿に向けられていくのです…。続きは、次回の「夢中図書館 いざ城ぶら」で…。

■基本情報

名称:妙本寺(みょうほんじ)
所在地:神奈川県鎌倉市大町1丁目15−1
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩8分

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