京都大原「寂光院」 建礼門院徳子ゆかり 平家物語の世界へ…

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、平清盛の娘にして安徳帝の母、建礼門院徳子ゆかりの地へ。
建礼門院が平家滅亡後に隠棲した場所、京都大原「寂光院」です。その陵墓「大原西陵」、さらには「三千院」も巡ります。京都大原「平家物語」の世界へ…。

■建礼門院徳子

建礼門院。女院になる前の名は、平徳子。平清盛の娘です。

ときは平家の全盛期、徳子は高倉天皇の皇后として入内すると、皇子を生みます。
この皇子は3歳にして安徳天皇に即位(高倉天皇は上皇に)。これにより、徳子は国母となりました。

しかし、その栄華も永くは続きませんでした…。
治承5年(1181年)正月、夫・高倉上皇が崩御。その翌月に父・清盛が死去すると、平家の没落が始まります。

源頼朝や木曾義仲らが平家討伐の兵を挙げると、平家一門は京を落ち、西海に逃れます。
徳子も安徳帝とともに従いますが、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ平家は滅亡。安徳帝も海に沈みました…。

徳子も壇ノ浦で入水しますが、幸か不幸か、その直後に助けられます。
都に戻ると出家し、大原の奥の寂光院に隠棲。そこで安徳帝と平家一門の菩提を弔い、その生涯を終えました。

■寂光院

京都大原にある寂光院
聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために開創したとされる古刹です。

ここに、建礼門院徳子が隠棲し、その終生を過ごしました。
徳子はこの地に来るとき、「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」の心境で移ったと平家物語に記されています。

とんでもない栄枯盛衰を経験した彼女は、この世の喧噪から離れたかったのかもしれませんね。
今もこの地は、京都の喧噪を離れて、平安のときが流れているように静寂に包まれています。

徳子は、寂光院の傍らに小さな庵をむすび、滅亡した平家一門と、子の安徳天皇の菩提を弔う日々を過ごしました。
「平家物語」では、この隠棲した建礼門院のところを後白河法皇が訪れる場面が描かれます。「大原御幸」と呼ばれる物語のクライマックス。

建礼門院が語る物語に、法皇は涙しました。私たち読み手も胸を揺さぶられる名場面です。
その建礼門院の庵のあとが境内に残っています。本当に小さな一画です。ここで建礼門院は生涯を終えました。

その没年については記録に残っていませんが、57歳ころと考えられます。
その陵墓「建礼門院大原西陵」は、寂光院のすぐ近くにあります。

■三千院

京都大原は、建礼門院がそうであったように、京の賑わいから少し離れて、ゆっくりとした時の流れを体感することができます。
何しろ、山や木々、川、虫の音に鳥のさえずり…。美しい自然が其処彼処にあります。

寺社も数多くありますので、大原の寺社めぐりをするのもいいかもしれません。
この日はその中の一つ、「三千院」まで歩いて足を延ばしました。

三千院は、天台宗の開祖・最澄が比叡山に建立した円融房を起源とする古刹です。
平安後期には皇族が入寺するようになり、その後も皇族が住職を務めました。

寺地は京の動乱などで幾度か移転し、明治維新後に当地大原に移り「三千院」と改称しました。
その名前は、「一念三千」(心のわずかな働き(一念)の中にも、この世のあらゆる要素(三千)が備わっている)という天台宗の教えに由来しています。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物があります。
美しい景観の日本庭園や苔むした境内、至るところで見られるわらべ地蔵など、見どころが沢山。ゆっくりと時間をかけて参拝したい寺社です。

(左から観音堂、金色不動堂、わらべ地蔵)

今日の夢中は、建礼門院ゆかりの京都大原へ。「寂光院」と「三千院」でした。

■基本情報

【寂光院】
所在地:京都府京都市左京区大原草生町676
アクセス:JR京都駅からバスまたは車
拝観時間:9:00~17:00(12~2月は16:30)
料金:600円

【三千院】
所在地:京都府京都市左京区大原来迎院町540
アクセス:JR京都駅からバスまたは車
拝観時間:(3~10月)9:00~17:00 (11月)8:30~17:00 (12~2月)9:00~16:30
料金:700円

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