城ぶら「柳之御所遺跡」!東北に栄華を築いた奥州藤原氏の政庁跡

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、奥州藤原氏の繁栄の跡、平泉にある「柳之御所遺跡」です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!雪に覆われた「政庁跡」、3代秀衡の居館「伽羅之御所」、京都の平等院を模したとされる「無量光院跡」をめぐります。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

平安時代末期、東北の地に栄華を誇る一大都市がありました。
奥州平泉…。その規模は、京都に次ぐ人口を誇る日本第2の都市でした。

平泉を拠点として、東北の地に覇権を敷いたのが、奥州藤原氏です。
前九年の役、後三年の役を経て、奥州の地を所領した藤原清衡を祖として、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を築きました。

3代秀衡のときには、従五位下・鎮守府将軍に就任。
その秀衡が政庁として建設したのが「平泉館」。後に「柳之御所」と呼ばれた場所です。

平泉は、京都と坂東の情勢を洞察した秀衡の外交手腕によって、平和と独立を保ち続けました。
しかし文治2年(1186)、平家を滅ぼした源頼朝が奥州に食指を伸ばします。

頼朝は秀衡に無謀な要求を突きつけると、果てはあらぬ反逆者に仕立て上げます。
もはや鎌倉との衝突は避けられないと覚悟した秀衡は、頼朝と対立した義経を受け容れると、息子泰衡に義経を主君として結束して頼朝に当たるよう遺言して没しました(1187年)。

しかし文治5年(1189)泰衡は頼朝の圧力に抗しきれず、義経を急襲し自害に追い込みます。
頼朝はこれを待ち構えたかのように奥州に出兵。泰衡は逃亡するも家臣に殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡しました。

なお、泰衡は逃亡する際に平泉の街に火をかけたため、平泉館(柳之御所)も灰燼に帰しました…。
その跡地は、平成22年(2010)史跡公園として一般公開されています。

■城ぶらり

それでは、奥州藤原氏ゆかりの史跡「柳之御所遺跡」をぶら歩きしましょう。

JR平泉駅から歩いて10分ほど。北上川沿いに広大な段丘が広がります。
ここが「柳之御所遺跡」(やなぎのごしょいせき)

遺跡は「吾妻鏡」に記載される「平泉館」と推定されており、奥州藤原氏の政務の場と考えられています。
これまでの発掘調査では、堀・園池・堀立柱建物などの遺構や、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されています。

訪れたこの日は、園内が雪で覆われていて、中に踏み入ることは困難…。
ただ一面の雪原を見て、その広さを実感できました。総面積は112,000 ㎡(東京ドームの2.5倍)。平泉が12世紀に京都に次ぐ国内第2の大都市だったというのも頷ける広大な政庁跡です。

この柳之御所は初代清衡以来の居館であったものを、3代秀衡が政庁として大改修したものと推察されます。
これに伴い、秀衡が居館を築いたのが「伽羅之御所」(きゃらのごしょ)です。

場所は、柳之御所遺跡の南西。4代泰衡もここを居館としました。
現地を訪れると、今では「伽羅之御所跡」を示す案内板があるだけで、周囲は民家と畑になっていてます。

この館の最後の主・泰衡は、源頼朝の攻撃を受けると平泉の街に火を放ち逃亡、後に落命。
奥州藤原氏は滅亡。栄華を誇った平泉は焼野原となりました。

■もっと城ぶらり

柳之御所遺跡の近くに、平泉の栄華を偲ぶ史跡があります。
それが「無量光院跡」(むりょうこういんあと)です。

平安時代末に藤原氏3代秀衡が建てた寺院の跡。
「吾妻鏡」には、京都の平等院を模して建立した寺院と記されており、発掘調査によって本堂の形などが平等院鳳凰堂に似ていることが確認されています。

残念ながら、度重なる火災により建物は焼失。今は土塁や池、礎石が残るのみ。
これまた、一面真っ白。本堂があったとされる中島には踏み入れることはできませんでした。

平安末期、東北平泉の地に半ば独立国を築いた奥州藤原氏
しかし、その栄華も東国に誕生した武士政権によって滅ぼされました。

それは、歴史の必然だったのか、それとも運命のいたずらだったのか…。
栄華と滅亡を刻む大地は、今は静かにひっそりと、悠久のときを刻んでいます。

■基本情報

名称:柳之御所遺跡
所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所地内
アクセス:JR平泉駅から徒歩10分
営業時間:9:00~17:00(11月〜3月 9:00〜16:30)
定休日:年末年始

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