畠山重忠、二俣川に散る!"武士の鑑"重忠を偲ぶ横浜古戦場めぐり

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、畠山重忠、二俣川に散る!"武士の鑑"重忠を偲ぶ横浜古戦場めぐりです。

(薬王寺に建つ畠山重忠公戦没の地碑)

■畠山重忠の乱

「武士の鑑」と称され、多くの武士から尊崇を集めた畠山重忠
しかし、彼のもとにも、北条氏による陰謀の魔手が迫りました…。

発端は元久元年(1204年)。京の地で、平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が酒席で諍いを起こします。平賀朝雅は、北条時政と牧の方の娘婿でした。
その翌日、重保とともに上洛していた、北条時政と牧の方の子・政範が病で急死

この2つの事件を受けて、牧の方は畠山重忠に対して一方的に恨みを募らせます。
朝雅から讒訴を受けると、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えました

元久2年(1205年)、時政は重忠討伐を決すると、三浦義村に命じて鎌倉にいた重保を誅殺
さらに、重忠を「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」という虚偽の命で呼び寄せると、息子・北条義時に命じて、この討伐に向かわせました。

重忠は、同年6月22日、二俣川で義時率いる討伐軍と遭遇しました。
謀反などあずかり知らぬ重忠は、そこで息子重保が殺されたこと、自分に追討軍が向けられていることを知ります。

このとき重忠が率いていたのは130騎、一方義時ら追討軍は数万騎でした…。
重忠は配下から退却を進言されますが、館へ退くことはせず潔く戦うことが武士の本懐であるとして、義時軍を迎え撃ち奮戦。

しかし、間もなく力尽きて、弓の名手・愛甲季隆の矢を受けて命を落としました。
「武士の鑑」畠山重忠、二俣川に死す…。享年42歳でした。

■二俣川の戦い跡

畠山重忠と北条義時軍が争った戦は、「二俣川の戦い」と呼ばれます。
その戦いが行われた場所は、鎌倉から17㎞ほど北、現在の横浜市旭区鶴ヶ峰周辺とされます。

帷子川のほとりに、戦いの後を示す「畠山重忠公終焉の地/鶴ヶ峰・二俣川合戦の地」という碑が建っていました。
さらに、重忠の武功を偲ぶ「畠山重忠公碑」も。これは、重忠没後750年を記念し、横浜市旭区鶴ケ峰と埼玉県深谷市畠山の有志により建立されたものです。

さらに、合戦の地の近くには、「畠山重忠公首塚」があります。
ここは、愛甲季隆の矢に倒れた重忠の首が祀られた場所といわれます。

横浜市旭区には、他にも畠山重忠ゆかりの史跡があります。その一つが、重忠の内室・菊の前の墓所とされる「駕籠塚」です。
菊の前は合戦の連絡を受け急ぎ駆けつけましたが、この地で重忠戦死を聞いて悲しみ、自害しました。その場所に駕籠ごと埋葬されたといわれています。

さらに、「六ツ塚」(薬王寺)。境内には、重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられている6つの塚があります。
霊堂である薬王寺には重忠の霊が祀られています。命日の6月22日には毎年、慰霊祭が催されるそうです。

「武士の鑑」畠山重忠死す…。その生き様は最後まで廉直でした。
その重忠を罠にはめて誅殺したのは、鎌倉殿を補佐する執権・北条氏でした。その北条の一族にも、この事件を機に亀裂が入っていくのです…。続きは、次回の「夢中図書館」で…。

■基本情報

【畠山重忠の乱古戦場跡】
住所:神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町1丁目1
アクセス:相鉄「鶴ヶ峰」駅から徒歩5分

【六ツ塚(薬王寺)】
住所:神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町2丁目15−9
アクセス:相鉄「鶴ヶ峰」駅から徒歩10分

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