城ぶら「高館義経堂」!兄頼朝に追われ平泉へ…源義経最期の地

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、源義経の最期の地、「高館義経堂」(たかだちぎけいどう)です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

源平合戦で獅子奮迅の活躍を見せた源義経(みなもとのよしつね)
しかし、兄頼朝の許可なく官位を受けたことなどから、頼朝との関係が悪化。

頼朝から追討の兵を受けると、義経は少年期を過ごした奥州平泉に落ち延びます。
ときの東北の覇者・藤原秀衡はこれを庇護し、北上川に面した高台にある「高館」(衣川館)に居館を与えました。

しかし秀衡が病没すると、後を継いだ子・泰衡は、頼朝の度重なる圧力に耐えかね、義経のいる高館を急襲します。
文治5年(1189)閏4月30日、平泉の兵に館を囲まれた義経は、持仏堂に籠るとそこで自害しました。享年31歳…。

■城ぶらり

それでは、源義経ゆかりの地、奥州平泉にある「高館義経堂」をぶら歩きしましょう。

平安時代末期に、東北地方に一大勢力を築いた奥州藤原氏
その藤原氏が本拠としたのが平泉です。その藤原氏の政庁跡「柳之御所」はすでに訪れました。

そこから北へ、小高く盛り上がった丘陵が「高館」(たかだち)と呼ばれる場所です。
この一帯は藤原氏初代清衡の時代から要害地とされてきました。眼下に雄大な北上川が流れています。

ここに、義経は逃れ匿われましたが、藤原氏4代泰衡の裏切りにあって自害に追い込まれました。
その義経を偲んだ「義経堂」(ぎけいどう)が、丘の頂上に建っています。

これは、天和3年(1683)、仙台藩主4代伊達綱村が義経を偲んで建立したもの。
堂内には、木造の源義経公像が本尊として祀られています。甲冑姿の義経は勇ましいですね。お堂の脇には、源義経主従供養塔が建っています。

元禄2年(1689)、平泉を訪れたのが俳人・松尾芭蕉です。
芭蕉はこの高館に立ち、眼下に広がる夏草が揺れ光る様を眺めて、この名句を詠みました。

夏草や 兵共が 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

芭蕉ならずとも、この高館に建つと、この地で散っていった武将らを思わずにはいられません。
奥州藤原氏と義経主従らの夢の跡…。しばし黙とうしました。

■もっと城ぶらり

ここ平泉の地で非業の死を遂げた源義経。
その正妻・郷御前と4歳の娘も、義経とともに最期を遂げました。

その墓所が金鶏山の麓にある千手堂の傍らにあります。
千手堂は藤原三代の位牌を祀るお堂。その脇にひっそりと建つ五輪塔が、源義経妻子の墓と伝承されています。

また、義経に付き従ってきた郎従もこの地で討死しています。
なかでも有名なのは、武蔵坊弁慶。高館が急襲されると、弁慶は義経を守り最後まで防戦。ついには立往生したと伝わります。

その墓碑が、中尊寺の入口近くにあります。
中尊寺の僧素鳥の詠んだ歌「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」が刻まれた石碑で、武蔵坊弁慶の墓とされる弁慶松に囲まれるように建てられています。

では、源義経の墓は?
義経が自害した後、その首は鎌倉に届けられました。検分された後、神奈川県藤沢市の白旗神社に葬られたと伝えられます。また胴体は宮城県栗原市の判官森に葬られたと伝えられます。

一方で、高館で自刃したのは義経の影武者で、義経はひそかに平泉を脱して北に逃げたという伝説があります。
義経は生き延びた…?世に言う「判官びいき」が、こうした義経北行伝説を生んだのかもしれません。

■基本情報

名称:高館義経堂(たかだちぎけいどう)
所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14
アクセス:JR平泉駅から徒歩20分
拝観料:大人300円、小中学生100円
営業時間:8時30分~16時30分 ※11/5~3/4は8時30分~16時
定休日:年中無休

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