城ぶら「武田信義館」!甲斐武田氏の祖・信義の栄華と悲運のあと

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、甲斐武田氏の祖・信義の居館跡「武田信義館」(山梨県韮崎市)です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!武田信義の墓がある「願成寺」、韮崎市役所には「武田信義の騎馬像」もめぐります。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

ときは治承4年(1180)。源頼朝の伊豆挙兵と同じくして、甲斐で挙兵した武将がいました。
それが、武田信義(たけだのぶよし)。新羅三郎義光の血統を受け継ぐ、甲斐源氏の棟梁でした。

信義は、平家方の駿河目代を討ち取り駿河国を占拠し、平家軍を待ち構えます。
やがて京から平家軍がやって来ると、信義は富士川の東岸に着陣。鎌倉から出兵してきた源頼朝と連携して平家軍と対峙します。

そして迎えた富士川合戦。しかし、平家軍は兵糧不足から士気が大きく低下していました。
武田信義軍が平家軍の背後を衝こうと富士川に入ると、水鳥が一斉に飛び立ります。これに驚いた平家軍は大混乱となり、戦うことなく撤退しました…。

その後しばらくは、東国で源頼朝、武田信義、源(木曽)義仲の3者が並立する時期が続きます。
やがて頼朝と義仲が対立すると、信義は頼朝方につき、その後も頼朝の平家追討軍に参加しました。

そんな信義の献身もむなしく、頼朝は自分と同格の甲斐源氏棟梁の排除に動き出します。
元暦元年(1184)、子の一条忠頼が謀叛を企てた容疑で誅殺されると、信義は失意のうちに病没しました。

■城ぶらり

それでは、甲斐源氏の棟梁・武田信義の本拠をぶら歩きしましょう。
信義の館があったとされる場所は、山梨県韮崎市にあります。

JR韮崎駅から武田信義の館跡に向かう途中、釜無川沿いにある韮崎市役所に立ち寄ります。
そこには、当地の英雄にして武田氏の祖、武田信義の騎馬像がありました。とても勇壮ですね…。

釜無川にかかるその名も「武田橋」を渡ると、左には名峰・富士が、右には八ヶ岳の山々がそびえ立っています。
この川も山々も、攻め手には厄介…。ここ韮崎の地は、天然の要害と言えます。

さらに、Googleマップを頼りに館跡をめざすと、2次元マップでは分からない坂道が…。
館は小高い丘陵部にあったようです。土塁跡と思しき遺構もありました。

レンタサイクルで向かったのですが、途中で漕ぐのを断念。
自転車を押してようやく到着したのが、「武田信義館」跡です。

築城年は定かではありませんが、信義によって築かれたとされる居館跡。
現在は開墾されて田畑と住宅地となっており、いまはその一角に「武田信義館跡」碑と案内板があるのみです。

その案内板によると、信義の館跡はおよそ250メートル平米の広さであったとされます。
その威容を偲ぶ史跡は残っていませんが、「お屋敷」「お旗部屋」「神酒部屋」「お庭」「的場」「お堀」「金精水」「具足沢」などの地名が残っているそうです。

平成20年の発掘調査では、水晶や中国産陶磁器などが出土しました。
これは、武田信義とその一族の栄華の名残りでしょうか…。

■もっと城ぶら

その武田信義の墓は、武田信義の館跡からほど近い「願成寺」(がんじょうじ)にあります。

願成寺は、信義が開基したと言われる寺院です。
本尊は、その信義の発願により造立したとされる阿弥陀如来像。平安末期の作です。

本堂の左手を進むと、武田信義の墓がありました。
鎌倉様式の五輪塔がひっそりと建っています。

武田信義は、源義家の弟・新羅三郎義光の曾孫にあたる人物。
その血統は源頼朝に引けを取らず、挙兵当初は源氏棟梁候補と目されましたが、頼朝の排斥に遭い没落…。失意のうちに病没したと伝わります。

ただ、甲斐源氏はその後、室町時代に入って再興します。
「甲斐の虎」と呼ばれた武田信虎、さらにはその子で「戦国最強」と謳われた武田信玄があらわれ、甲斐武田の名を轟かせました。

信義の墓の隣には、武田家の歴代当主を弔う御霊廟が鎮座しています。
源頼朝と覇を競った甲斐の豪傑・武田信義。その勇猛な血統は、戦国期に大きく花開きました。

■基本情報

【武田信義館跡】
名称:武田信義館跡
所在地:山梨県韮崎市神山町556−2
アクセス:JR韮崎駅からタクシーで10分

【願成寺】
名称:願成寺
所在地:山梨県韮崎市神山町1111
アクセス:JR韮崎駅からタクシーで10分

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