家康を辿る城旅「岡崎城」!戦乱必至の三河に生まれた運命の子…家康生誕の城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま徳川家康がアツい…。
大河ドラマ「どうする家康」で注目が高まる家康、その生涯を辿る城旅へ出かけましょう。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「岡崎城」!戦乱必至の三河に生まれた運命の子…家康生誕の城です。

■家康を辿る物語~家康誕生

天文11年(1542年)12月26日、岡崎城内で一人の男児が産声をあげました。
幼名は「竹千代」。後の徳川家康です。

父は、三河国岡崎城主・松平広忠、このとき17歳。
母は、三河国刈谷城主・水野忠政の娘、於大(おだい)。このとき15歳でした。

松平氏は、広忠の父(家康の祖父)清康が岡崎城を本拠に三河に覇を唱えました。
しかし、その清康が、尾張侵攻の陣中で家臣に斬られ死亡(享年25)。

このとき10歳の広忠は、一族間の内紛に巻き込まれ、やがて命を狙われて伊勢に逃れます。
そして今川義元を頼り、遠州・駿府へ…。義元の庇護を得て、ついに岡崎城への帰還を果たしました。

晴れて岡崎城主となった広忠ですが、西から三河を狙う尾張の織田氏に対抗する力はありません。
東の今川義元の力を借りるしか手はありませんでした。このときの松平氏は、実質的に今川氏の家臣のような家格だったと思われます。

西の織田、東の今川という大国に挟まれた、小豪族の松平氏…。
戦乱必至の三河・岡崎城に、竹千代、後の徳川家康は生を受けたのでした。

■城ぶら「岡崎城」

それでは、今日の城ぶら「家康を辿る城旅」は、家康生誕の地「岡崎城」をめぐりましょう。

徳川家康が生まれた神君出生の城として、「日本100名城」にも選定されている城。
現在は岡崎公園として整備されている城跡にそびえる天守は、1959年に再建された復興天守です。

(南側から見た天守)

3層5階の勇壮な姿は、岡崎市のシンボルとして多くの人に愛され親しまれています。
天守のなかは、家康時代を含む岡崎の歴史文化が分かる展示コーナーになっています。5階展望室からは岡崎市を一望できます。

でも、実は家康時代にはこのような立派な天守はなかったものと考えられます。
現在の城のひな形をつくったのは、家康の後に城主となった豊臣方の武将・田中吉政。吉政が石垣など近代城郭を整備したと見られます。

(東側から見た天守)

ただ、さすがは神君出生の城。家康ゆかりの史跡も多くあります。
まずは「産湯の井戸」。家康(竹千代)が誕生した際に、この井戸から産湯の水を汲んだと伝えられています。後世には神聖視されました。

(産湯の井戸)

つづいて「胞衣塚」(えなづか)。胞衣(えな)とは、へその緒・胎盤のこと。ここは家康の胞衣を埋めたと伝えられる塚です。
古来、日本では胞衣を埋めて子供の成長を願ったといわれます。竹千代はその願い叶って、大きく成長しましたね。

(胞衣塚)

■もっと城ぶら「清海堀」

そして、本丸北側に築かれた大規模な空堀。岡崎城の最初の築城者、西郷頼嗣の法名「清海入道」に因み「清海堀」と呼ばれています。
空堀を挟んで曲輪の跡も見受けられます。こうした本丸周辺の厳重な守りは、戦国時代後期に成長して岡崎に戻った家康が築き上げた縄張りともいわれています。

(清海堀)

ただ、家康時代の岡崎城は堀と土塁を配した「土造りの城」でした。
現在、堀に施されている石垣は、家康の関東移封後に城主となった田中吉政が築き始めたもの。清海堀の他にも本丸周囲を石垣がめぐらされていますが、それも吉政以降の建造と考えれます。

(本丸を囲む石垣)

なお、「清海堀」の脇に、かわいらしい「竹千代」の像と、どっしりとした「家康公」の像が並んで配置されていました。
竹千代は、数え6歳のときに岡崎城を離れ、尾張そして駿府で長い人質生活を送ることになります。そう…「家康公」と呼ばれるまでには、長い苦難の道のりがあったのです。

竹千代から徳川家康へ…。その成長の道のりは、また当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で辿っていくことにしましょう。
ありがとう、岡崎城! 次の「家康を辿る城旅」で会いましょう。

■基本情報

名称:岡崎城
住所:愛知県岡崎市康生町561−1
アクセス:名鉄「東岡崎」駅より徒歩15分
営業時間:(天守)9:00から17:00まで(ただし、入館は16:30まで)
休館日:年末年始(12月29日~12月31日)

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事