戦国最大の逆転劇「桶狭間の戦い」!ゆかりの地"桶狭間古戦場公園"そして"長楽寺"へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、戦国最大の逆転劇「桶狭間の戦い」!ゆかりの地"桶狭間古戦場公園"そして"長楽寺"へ…です。

■家康を辿る物語

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」

織田信長はその日、幸若舞「敦盛」を舞うと、疾風の如く出撃しました。
永禄3年(1560年)5月19日、信長は2000~3000人ほどの軍勢を整えると、総勢2万5千人の今川軍に奇襲を仕掛けます。

狙うは、今川義元ただ一人…。信長は、義元が本陣を置いた「桶狭間」を急襲します。
一方の義元は、緒戦の勝利に気を緩めていました。敵襲など予期するわけもなく、突然現れた敵兵に桶狭間は大混乱となりました。

そして、ついにその時がやって来ます。乱戦のなか、織田方の毛利新介が義元に襲い掛かります。
新介は義元を組み伏せると、その首を討ち取りました

ここに、歴史にその名を刻む「桶狭間の戦い」は決しました。
圧倒的な不利と見られていた織田信長が、大軍を率いた今川義元を討ち取り、奇跡の勝利をおさめたのです。

■桶狭間古戦場公園

それでは、戦国最大の逆転劇「桶狭間の戦い」ゆかりの地をめぐりましょう。

桶狭間の戦いの中心となったとされる場所、今川義元最期の地…。
そこは現在、史跡公園として整備されています。それが「桶狭間古戦場公園」です。

園内には、因縁の2人の像が建っていました。織田信長と今川義元の銅像…。
桶狭間の戦いのとき、圧倒的な兵力を誇り尾張に侵出した義元は42歳。新進気鋭の信長は27歳でした。

この銅像は、そのときの2人の年齢や貫禄などをよく表しているように思います。
このとき義元はよもや信長に敗れるとは思っていなかったでしょう。一方で、兵力で劣る信長は、ただ義元の首だけ狙って奇襲を仕掛けました。

その近くには、田楽坪のねず塚から出土した「駿公墓碣」と刻まれた墓碑があります。
建立年は不明ですが、当時の村人が義元を弔った墓石と言われます。隣接して昭和8年に建立された今川義元の墓碑も建っていました。

(左:今川義元の墓、中央:2つの墓碑、右:駿公墓碣)

さらに園内には、今川義元の首を洗ったとされる泉や、義元が馬を繋いだと言われるねずの木もあります。
この木には、触れると熱病になるという言い伝えがあります。義元の怨念でしょうか…。

(左:義元公首洗いの泉、右:義元公馬繋ぎのねずの木)

■長福寺

桶狭間古戦場公園から少し足を延ばすと、「長福寺」という寺があります。
ここは、桶狭間の戦いの後、信長が今川義元の首検証をしたとされる場所です。

境内には、「今川義元公首検証之跡」と刻まれた石碑と杉の木が建っています。
案内板によると、ここで、織田方に捕らえられた茶坊主の林阿弥が、主君の義元や今川方武将の首を検証したとのこと。そこに立つ杉の木は供養杉だそうです。

さらには、桶狭間の戦いで血の付いた刀を洗ったとされる「弁天池」もあります。
今は殺生が禁じられた放生池ですが、江戸時代の史料には「血刀濯ぎの池」と記されている池…。池の中央には弁財天が祀られています。

ここ桶狭間の地で、まさかの討死となった今川義元…。
このとき義元の先鋒として尾張・大高城にいる松平元康(家康)にも危機が迫ります

風雲急を告げる戦国時代…。果たして家康の運命はいかに?
家康を辿る城旅…続きはまた当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴っていきます。

■基本情報

【桶狭間古戦場公園】
住所:愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001
アクセス:名鉄「有松」駅から市バス、または車
営業時間:24時間

【長福寺】
住所:愛知県名古屋市緑区桶狭間427
アクセス:名鉄「有松」駅から市バス、または車

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