北条義時死す…その墓所は全てを学んだ源頼朝の墓の近くに。鎌倉「法華堂跡」

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いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条義時死す…その墓所は全てを学んだ源頼朝の墓の近くに。鎌倉「法華堂跡」です。

■北条義時

源頼朝から全てを学んだ男、北条義時
伊豆の弱小豪族の次男坊でしたが、源頼朝と出会ったことから運命が急転。頼朝の挙兵を助けると、源平合戦から鎌倉開幕へと、常に頼朝の側近として仕えました。

頼朝の死後、その遺志を受け継ぎ、幕府の政治を取り仕切ります。
東国内で権力抗争が激化するなかで、次々と有力御家人を粛清。ついには父・時政も追放し、幕府の執権に登りつめました。

やがて3代将軍・源実朝が暗殺されると、京の後鳥羽上皇が牙を剥きます。
幕府の任命した地頭解任を求め揺さぶりをかけますが、義時は頼朝が勝ち取った地頭任命権を決して譲りませんでした。

そして起こった、東国対西国の雌雄を決する戦い、承久の乱
大軍をもって京に攻め上った東国軍が勝利すると、頼朝が開いた鎌倉幕府は、義時の手によって、ついに全国を統べる武家政権となりました。

義時は、乱の翌年に陸奥守や右京権太夫の官職を辞し無官となります。
新たに支配を確立した京や西国の行政を六波羅にとどめた息子・泰時と弟・時房に委ね、自身は鎌倉にいて姉・政子や幼い三寅(後の4代将軍・藤原頼経)を支えました。

そして貞応3年(1224年)、承久の乱から3年を経たこの年に、北条義時は息を引き取りました
享年62歳。その死因については、脚気と暑気あたりによる病死とされていますが、急死であったために毒殺説もささやかれています。

■北条義時の墓(法華堂跡)

鎌倉幕府の実質的な指導者として、強大な武家政権を築いた北条義時
その墓所とされる「法華堂跡」が鎌倉にあります。

義時の墓については、吾妻鏡に記載があるものの、長らくその場所は不明でした。
しかし、2005年の発掘調査でついに墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。その場所は、源頼朝の眠る墓所のすぐ近く…。

鎌倉幕府を開いた頼朝の墓所と並ぶように墓所が築かれたことからも、当時の義時の影響力の強さをうかがい知れます。
ここに義時の墓所を造ったのは、姉・政子と考えられます。鎌倉に武家政権を築いた功績者として、夫・頼朝と並び弟・義時を讃え祀ったのでしょう。

遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後に埋め戻されました。
いま当地を訪れると、その場所が分かるように、地表に木杭や石が設置されています。この下に、義時が眠ってるんですね…。胸アツです。


なお、先述の通り、義時の死因については病死とされる一方で、毒殺説もあります。
この説によると、義時に毒を盛ったのは妻・伊賀の方…。義時の死後、伊賀の方は兄・伊賀光宗と共謀して、実子・政村を執権にしようと画策、「伊賀氏の変」と呼ばれる政変を起こします。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この妻「のえ」を菊地凛子さんが演じていましたね。
真偽のほどは定かではないですが、その死は策謀・陰謀を重ねて地位を築いた義時への報いだったのでしょうか…。

せめて、さまざまな業を背負いながらも、頼朝以来の宿願であった武家政権の確立を見届けて、安らかに義時は逝ったと願いたい…。
北条義時の墓は、源頼朝の墓と合わせて、「法華堂跡(源頼朝・北条義時墓)」として国指定史跡に指定されています。

■基本情報

名称:北条義時墓(法華堂跡)
住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目5
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩20分

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