治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡です。

■承久の乱の果てに

東国対西国…その雌雄を決する戦い、承久の乱
東国・幕府軍は、進軍の道すがら兵を膨らませ大軍と化し、ついに西国・朝廷軍の最終防衛線である宇治川を突破しました。

幕府軍は京の町に雪崩れ込むと、京の町に火を付け略奪暴行を働きます。
恐れおののいた後鳥羽上皇は、幕府軍に使者を送り、先に発した義時追討の院宣を撤回しました。

さらに「この度の乱は謀臣の企てであった」として、朝廷軍を率いた藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下します。
藤原秀康らは宇治川の敗戦後、最後の一戦をするために院御所を訪れましたが、上皇に「お前たちがいれば私も攻められる」と追い返されました…。

結局、藤原秀康や三浦胤義ら朝廷軍の主だった者は、捕らえられて斬首あるいは自害。
首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐に流罪となりました。

承久の乱は、幕府軍の圧倒的な勝利に終わりました。この後、朝廷は幕府の監視下に置かれます。
その勝利は、鎌倉と京都の二元政治を終わらせるとともに、この後江戸時代まで続く武家政権を確立させることとなりました。

■後鳥羽上皇ゆかりの地

「治天の君」として京に君臨した独裁者、後鳥羽上皇
しかし、その傲慢ともいえる統治は、東国に勃興した新勢力のもとに脆くも崩れ去りました。

東国側の後鳥羽上皇に対する処置は、慎重かつ果断に行われました。
まず上皇を院御所の高陽院から四辻殿へ移すと、それから半月後に、さらに郊外の鳥羽殿へ…政治の中心から遠ざけました。

さらにその2日後には出家を要請。そして1週間も経たないうちに、隠岐へ配流しました。
ときを同じくして、後鳥羽の血を引く仲恭天皇を廃位、別血統の茂仁王(後堀河天皇)を即位させました。もちろん、糸を引いたのは北条氏です。

北条氏の後鳥羽上皇に対する怒りが見えるような処断です…。
その後鳥羽が京で最後に過ごした鳥羽殿は、現在は「鳥羽離宮公園」として一般に開放されています。

後鳥羽は、ここにあった邸宅から隠岐へ配流されました。
鳥羽殿を出る際、逆輿(さかごし)という進行方向とは逆にして運ばれる罪人の移送方法で連れ出されたそうです。

後鳥羽は、隠岐の島で19年もの歳月を過ごしました。
帰京の願いは許されることなく、後鳥羽はこの孤島で没しました。享年60歳

後鳥羽が京に還ってきたのは、遺骨になってからでした。
後鳥羽天皇(上皇)の眠る御陵は、京都大原にあります。それが「大原陵」です。

治天の君から隠岐配流へ…。急転直下の人生を歩んだ後鳥羽上皇。
その陵墓は、都の喧騒を離れた大原の地で、今もひっそりとたたずんでいます。

■基本情報

【鳥羽離宮公園】
住所:京都府京都市伏見区中島御所ノ内町
アクセス:竹田駅から徒歩20分

【大原陵(後鳥羽天皇陵)】
住所:京都府京都市左京区大原勝林院町
アクセス:JR京都駅からバス、「大原」バス停下車、徒歩15分

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