東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ…です。

(左:木曽川、右:宇治川)

■木曽川の戦い

いよいよ始まった東国対西国の運命の戦い。後に言う「承久の乱」

承久3年(1221)5月22日、東国・幕府軍は、東海道、東山道、北陸道の三方から怒涛の勢いで進撃を開始しました。
一方の西国・京都の後鳥羽上皇らは、幕府軍の出撃を予想しておらず動揺…。あわてて近臣の藤原秀康を総大将に兵を派遣、美濃木曽川で幕府軍を迎え撃つこととしました。

このとき幕府軍は、道々で膨れ上がって19万騎
一方の朝廷軍は、1万7500騎。にもかかわらず、少ない兵を分散させる愚を犯しました…。幕府軍は朝廷軍をたちまち撃破。一気に京へ進軍していきました。


緒戦となった木曽川近くに、承久の乱ゆかりの史跡があります。
現在の岐阜県南部、美濃加茂市と可児市の境にある「大井戸渡」(おおいどのわたり)という古戦場跡です。

木曽川の北側(美濃加茂市)に布陣したのが朝廷軍、大内惟信率いる2000騎。
その付近には現在、「虚空蔵堂」(こくうぞうどう)が建っています。戦場跡を示すものは残っていませんが、同地に建つ立看板が、ここが古戦場跡であったことを記しています。

一方、木曽川の南側(可児市)に押し寄せてきたのが、甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる幕府軍。その数は5万騎…。
数で勝る幕府軍は、朝廷軍を一蹴。さらに、主力の北条泰時・時房率いる10万騎が木曽川を渡河、圧倒的な勢いで京に向かいました。

その木曽川南岸には現在、緑の芝生が広がる公園(日特スパークテックWKSパーク)が整備されています。
その一角に、「承久の乱・大井戸渡 古戦場跡」の案内板があります。そこに記されている通り、ここ「大井戸」の地で口火を切った戦いにより、その後江戸時代まで続く武家政権が確立されることになるのです。

■宇治川の戦い

幕府軍の進撃はすさまじい速さでした…。出陣から22日で京に迫りました。
朝廷軍は兵を動員するのもままならず、残る全兵力を持って宇治・瀬田に布陣、宇治川を最終防衛線とすることにしました。

承久3年(1221)6月13日、幕府軍と朝廷軍は激突します。
朝廷軍は宇治川の橋を落とし、大量の矢を放って必死の防戦を図ります。対する幕府軍は、大軍を擁していたものの、豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねました。

しかし翌14日、幕府軍が多数の溺死者を出しながらも、強引に渡河を敢行し成功。
すると戦況は一気に幕府軍に傾きます。幕府軍の猛攻にさらされた朝廷軍は潰走…。14日夜には、幕府軍は京へ雪崩れ込みました。


承久の乱、最終決戦の地となったのが、京の「宇治川」です。
今は、たくさんの観光客でにぎわう風光明媚な場所…。当時、この宇治川を挟んで幕府軍と朝廷軍が対峙しました。

北条泰時ら幕府軍は、近くの「平等院」に陣を構えました。
ここが戦場にならなくて本当に良かった…。東国武士たちの間にも浄土信仰が広まっていたのでしょう。泰時の統制が行き届いていたのかもしれません。

その北条泰時ですが、宇治川の激流に兵が次々と飲み込まれるなか、自ら渡河しようとする姿が「承久記絵巻」に描かれています。
そうした総大将・泰時の決死の思いもあって、やがて幕府軍は渡河に成功します。戦慣れした東国武士の総攻撃が始まると、もはや朝廷軍に為す術はありませんでした…。ここに承久の乱の勝敗は決しました

■基本情報

【大井戸渡 古戦場跡】
住所:岐阜県可児市土田2691番地1 日特スパークテックWKSパーク(かに木曽川左岸公園)
アクセス:美濃太田駅または可児駅からタクシーまたはバス

【宇治川(宇治橋)】
住所:京都府宇治市宇治
アクセス:JR宇治駅から徒歩8分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事