城ぶら「怒田城」!海の武士団・三浦一族の武運を拓いた海の城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、三浦一族が武運を切り拓いた海の城、「怒田城」(ぬたじょう)です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

怒田城(ぬたじょう)は、三浦氏によって築かれたと伝えられます。
築城年は不明ですが、平安時代末期に三浦為継によるという説もあります。

位置づけとしては、三浦氏の居城・衣笠城の支城
海上活動を活発に行い「海の武士団」と呼ばれた三浦氏の根拠地であったと考えられます。

治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に応じて出兵した三浦氏は、平家方の畠山重忠軍と遭遇、合戦となります。
やがて畠山軍は河越氏や江戸氏などの援軍を加え、三浦氏の本拠・衣笠城に来襲します。

このとき、一族の和田義盛(三浦義明の孫)は「要塞堅固な怒田城で戦おう」と進言。
しかし、城主・三浦義明は、「衣笠城こそは世に聞こえたる城よ」と退け、衣笠城に籠り戦うことを選択しました。

そして始まった衣笠城合戦…。数に勝る畠山軍の猛攻をしのぎ切れず、三浦一族は苦渋の決断に至ります。
義明だけが衣笠城に残り(高齢で足手まといのためとも…)、あとの者は怒田城に脱出する…。

義明は城に残り奮戦、壮絶な最期を遂げました。享年89才。
一方、息子の三浦義澄や孫の和田義盛らは間道を通って怒田城へ到着。そこから船で安房へ向かうと、源頼朝と合流しました。

その後鎌倉幕府が成立すると、三浦氏は失地挽回、衣笠城を再び本拠に隆盛を極めます。
しかし宝治元年(1247)、北条氏との争いに敗れ没落。衣笠城が廃城となると、同時期に怒田城も廃城となったものと推察されます。

■城ぶらり

それでは、「海の武士団」三浦氏が誇る海の城、怒田跡をぶら歩きしましょう。

怒田城の跡は、京急久里浜線を見下ろす丘陵にあります。
現在は城跡という以上に「吉井貝塚」として知られ、県の指定史跡となっています。

丘陵にのぼる入口には、「吉井貝塚」の案内板が設置されています。
発掘調査により、縄文時代早期から古墳時代後期までの土器、石器、骨角器、住居跡などが出土したとのこと。

なので、坂道を登った高台の平場は、主に貝塚の遺構として整備されています。
案内板もほとんどが貝塚のものですが、一部に「怒田城」の掲示もあり、僅かながら城跡であったことを知ることができます。

城跡の遺構も僅かながら残っています。それが、高台の東西を隔てる空堀跡と中央の土橋跡
発掘調査の結果、幅4.5~5m、深さ1.7~3mのV字型の堀が発見されたそうです。ただ、今は埋め戻されていて、当時の様子をうかがい知ることはできません…。

この堀跡を超えて西側へ。ここは地形からして、曲輪があったものと思われます。
こちらは宅地や鉄道の開発によって、さらに西側に伸びていた丘陵部が削られてしまったみたい。

眼下は見渡す限りの宅地ですが、かつては、この辺りが久里浜湾の入り江だったと考えられます。
怒田城での籠城を進言した和田義盛は、周囲が急な崖で一方は海に面した要害であることに着目して、「1~2百人の兵があれば、1~2万人の兵を持っても攻め落とせない」と主張しました。

実際に、今もこの地域に「舟倉」という地名が残っていることから、三浦一族はここに船を常備していたものと思われます。
船で直接、城に乗り入れることもできたのかもしれませんね。

衣笠城の落城と前後して、怒田城に入った三浦義澄・和田義盛ら一族は、ここから船で脱出
安房に向かうと、そこで源頼朝と合流しました。頼朝は、三浦一族の忠勤ぶりにいたく感動したと言います。

後に、幕府を開いた頼朝は、三浦一族を厚遇
頼朝死後も有力御家人として、「鎌倉殿の13人」と呼ばれる13人合議制に、三浦義澄と和田義盛が名を連ねました。

ただ、そんな三浦一族も、北条氏による他氏排斥の動きに巻き込まれ、骨肉相食む争いを繰り広げます。
和田義盛は、三浦義村の寝返りにより討死。一族はその後も、離反・抗争を繰り返します。そして宝治元年(1247)、三浦氏の乱と呼ばれる宝治合戦で、北条氏によって滅ぼされました

■基本情報

名称:怒田城跡(ぬたじょうあと)
所在地:神奈川県横須賀市吉井1丁目1-23
アクセス:JR久里浜駅/京急久里浜駅から徒歩11分

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