織田・徳川連合軍と武田軍が激突「長篠・設楽原の戦い」!勝敗を決した馬防柵

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、織田・徳川連合軍と武田軍が激突「長篠・設楽原の戦い」!勝敗を決した馬防柵です。

■家康を辿る物語

天正3年(1575年)5月18日、織田軍3万と徳川軍8千は、長篠城手前の設楽原に着陣しました。
織田信長は、連吾川に沿って三重の馬防柵を築き、鉄砲隊を主力とする陣形をつくると、騎馬隊の突撃に備えました。

5月20日、織田・徳川軍の到着を知った武田勝頼は、周囲の反対を押し切って決戦を行うことを決定します。
そして3千の兵を長篠城に押さえに残して、主力の1万2千を設楽原に移動させました。

5月21日早朝、武田軍の山県昌景が攻撃を開始し、長篠・設楽原の戦いが始まります。
武田軍は騎馬隊により馬防柵の突破を図りますが、織田・徳川方の鉄砲隊の攻撃に遭い損害を重ねます。

戦いは昼過ぎまで続きましたが、やがて武田軍が力尽きて敗走…。武田軍は総崩れとなりました。
この戦いで、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀ら名だたる武将が戦死し、武田軍は大敗を喫しました。

(設楽原決戦場碑、火縄銃(設楽原歴史資料館))

■設楽原古戦場

戦国史に残る合戦、長篠・設楽原の戦い
長篠城手前の設楽原で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突しました。

合戦が行われた設楽原は、現在の愛知県新城市にあります。
いま当地に足を踏み入れると、合戦があったとは信じがたい、のどかな田園風景が広がっています。

本当にここで、織田信長や徳川家康、武田勝頼という戦国を代表する武将が戦ったのか…。
そんな風に思いを馳せながら歩みを進めると、ありました。ここが戦場であった証しが…。

のどかな田園風景のなかに、明らかに違和感のある柵が築かれています。
これは、長篠・設楽原の戦いのときに織田徳川連合軍が設けた「馬防柵」を再現したもの。この馬防柵が戦いの勝敗を決しました。

信長は、材料となる丸太を岐阜や岡崎から兵士に一本ずつ持ち運ばさせたと伝わります。
その丸太を組合せ、設楽原を流れる連吾川沿いに全長2kmにわたり、三重の柵をつくりました。

そして、この馬防柵の後ろに大量の鉄砲隊を控えさせたのです。騎馬ではなく鉄砲…信長が仕掛けたのは鉄砲を主体する前代未聞の戦いでした。
馬防柵は、主力となる鉄砲隊を守り、武田の騎馬軍を迎え撃つ役割を果たしました。

実際に武田軍の騎馬隊が押し寄せると、馬防柵の後ろから大量の火縄銃が火を噴きます。
信長はこの戦いで3000丁もの鉄砲を用意したといいます。間断なく撃たれる弾丸に、武田の騎馬兵が次々と斃れていきます。

この戦によって、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀ら名だたる武将が戦死しました。
武田軍の戦死者は1万を超えたといいます。ほぼ壊滅…。一方、織田・徳川連合軍は6千人程度、主だった武将の戦死者はありませんでした。

設楽原古戦場にほど近いところに、長篠設楽原の戦いの戦死者を弔う塚、通称「信玄塚」があります。
合戦で落命した兵士を埋葬したところ。武田軍を弔ったものは「大塚」、織田・徳川軍を弔ったものは「小塚」と呼ばれています。

(左:大塚、右:小塚)

■基本情報

名称:設楽原古戦場
住所:愛知県新城市大宮清水1−9
アクセス:三河東郷駅から徒歩20分

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