"高天神を制するものは遠州を制す"家康対勝頼「高天神城」をめぐる激戦の果て

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、"高天神を制するものは遠州を制す"家康対勝頼「高天神城」をめぐる激戦の果てです。

■家康を辿る物語

「高天神を制するものは遠州を制す」
そう呼ばれた重要拠点・高天神城をめぐって、徳川家康と武田勝頼が激戦を繰り広げます。

天正2年(1574年)、勝頼は2万5千という大軍で徳川方の高天神城に攻め寄せます。
片や城方は城主・小笠原長忠以下1,000…。籠城して耐えるものの、武田軍の猛攻を前に降伏開城。高天神城は武田のものになりました。

対する家康は天正6年(1578年)、高天神城を締め付ける拠点として横須賀城を築城
さらに周囲に「高天神六砦」と呼ばれる砦群を築き、兵糧や弾薬の補給を遮断します。

このときの城主・岡部元信は再三再四、勝頼に救援要請を送りますが、音沙汰はありません。
万策尽きた岡部は降伏を申し出ますが、家康はこれを拒否。これは信長が許さなかったためとも言われています。

高天神城ではいよいよ兵糧が尽き、城兵は多く餓死したと伝わります。
天正9年(1581年)3月、岡部ら城兵は城を出て突撃を敢行。ほぼ全員が討死しました…。

この戦いにより、結果として城方の将兵を見殺しにしたことで、武田勝頼の威信が大きく失墜しました。
翌年、信長による甲州攻めが行われると、武田方の有力家臣の多くが離反造反。武田勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。

■高天神城をめぐる(その1)

家康を辿る城旅。今日は武田・徳川の激戦の跡、高天神城をぶら歩きしましょう。
続日本100名城にも数えられている、現在の静岡県掛川市にある堅城です。

高天神社の鳥居をくぐって、城址へ。ここは当時、搦手門があったところです。
だいぶ年季の入った「史跡 高天神城跡」の石碑も立っています。

高天神城は標高132mの高天神山に築かれた山城です。
搦手門跡から本丸方面へ石段を登っていくと、その脇に削り取ったかのような山肌が広がります。
見事な「切り通し」です。山を削って急峻な斜面を築いて、敵が近づけないようにしたのでしょうね。

石段を登ると分岐点があります。まずは右手(西側)へ。
石段の上、西の丸跡に建つのが高天神社です。城の守護として兵たちから信仰を集めたようです。特に籠城していた将兵たちにとっては、救援を神に祈る思いだったでしょう…。

この西の丸を守るように、井戸曲輪や袖曲輪などの曲輪が配置されています。
これを見ると、こちらが本丸のような布陣。堀切も施されていて、防衛に力を入れていたことがうかがえます。

この高天神城は、北・南・東の面は断崖絶壁となっていますが、西側だけ緩斜面になています。
そのため、この方面を補強するために武田方が西側の防備を進めたようです。長大な空堀跡もありました。

さらにその西側に進むと、「馬場平」という出丸のような場所に出ます。
ここから城下を一望できます。海も見えました。ただ、落城のときは、景色を見る余裕もなかったでしょう…。

天正9年(1581)の落城のとき、軍監横田甚五郎はここから続く尾根続きの険路を辿って脱出。武田勝頼に落城を知らせました。
そのため「甚五郎抜け道」と呼ばれていますが、細い難路が続くため、別名「犬戻り猿戻り」とも言われています。

■高天神城をめぐる(その2)

続いて、分岐点に戻って、今度は左手(東側)へ。
こちら側には、本丸跡や三ノ丸跡があります。再び階段を登って、まずは本丸跡へ。

武田・徳川が奪い合った高天神城。その死闘を見守った本丸…。
今は雑草が生い茂るのみ、往時を偲ぶものは何も残っていませんが、だからより一層寂寥感が増します。

本丸の側には、「元天神社」が祀られています。先ほどの高天神社は、元々はここにありました。
その近くの曲輪は、天神社の近くにあったことから「御前曲輪」と呼ばれてたようです。何らかの祭祀を行っていたとも考えられています。そこには、小笠原長忠と奥方の顔出しパネルがありました。

御前曲輪のほかにも、弓矢等の練習をしていたと思われる「的場曲輪」や、大小さまざまな土塁が築かれています。
さらには、徳川方の武将・大河内源三郎が8年間も幽閉されたという石窟もあります。

もはや、ここまで来ると、広大で入り組んだ山城歩きで足がへとへと…。
最後の力を振り絞って、「三ノ丸跡」へ。大手門から本丸を守る重要な拠点です。こちらも周囲には土塁が築かれていて、激戦の跡が偲ばれます。


武田・徳川が決死の攻防戦を繰り広げた「高天神城」
往時を偲ぶ建物などの遺構は残っていませんが、激戦の記憶は、山に木々に刻まれています。

武田方にとっては滅亡の、徳川方にとっては飛躍の、運命の分岐点となった高天神城
「高天神を制するものは遠州を制す」 どころか、「高天神を制するものは天下を制す」と言っても過言ではない、戦国の帰趨を握る山城でした。

ありがとう、高天神城! 続日本100名城です!

■基本情報

名称:高天神城
所在地:静岡県掛川市上土方嶺向・下土方
アクセス:JR掛川駅からバスで25分、徒歩で10分

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