城ぶら「泉小次郎親衡館」!めざすは北条義時の首…信濃源氏・泉親衡の乱

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、城ぶら「泉小次郎親衡館」!めざすは北条義時の首…信濃源氏・泉親衡の乱です。

■泉親衡の乱

東国の王者・源頼朝の死後、御家人同士の権力争いが激しさを増す鎌倉…。
凄絶な抗争の果てに北条氏が、2代将軍・源頼家を幽閉のうえ暗殺、3代将軍・源実朝を擁立し、政治の実権を握りました。

北条執権政治…。後にそう呼ばれる、執権・北条義時による支配体制が始まります。
しかし、鎌倉は鎮まりません…。絶大な権力を握る北条氏に対して、不満や怨嗟を抱く武士たちがいました。

信濃源氏の流れを汲む御家人・泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)もその一人…。
建暦3年(1213年)親衡は、源頼家の遺児・千寿丸を擁して、執権北条義時の打倒を企てます。

親衡は、反北条の御家人に密使を遣わして挙兵の準備を進めますが、密使の安念法師が千葉成胤により捕縛されたことにより事が露見します。
安念の自供から、張本(首謀者)が130余人、伴類が200人に及ぶことが明らかになりました。

千葉成胤から通報を受けた北条義時は、直ちに親衡捕縛の兵を派遣。
鎌倉の違橋(たがえばし)で合戦となりますが、剛勇で知られる親衡は幕府の兵を返り討ちにし、混乱に乗じて行方をくらましました。

泉親衡の陰謀とそれに続く合戦は、後世「泉親衡の乱」と呼ばれています。

■泉小次郎親衡館

北条義時の首を狙った泉小次郎親衡
信濃国を本拠とする親衡ですが、関東の居館とされる場所が横浜市泉区にあります。

それが、「泉小次郎親衡館」。中和田城とも呼ばれる城跡です。
といっても建物が残っているわけではなく、小高い台地があるのみ。そこは現在「泉中央公園」となっています。

台地の平坦部にある広場は、かつて曲輪だったのでしょう。ここに親衡の館もあったのでしょうね。
公園の西側は和泉川が流れ、天然の水堀を形成しています。さらに、館跡を守るように空堀と土塁が残っています。

特に南側の土塁は、なかなかに迫力があります。
土塁も堀も二重に連なっているように見えます。これは、北条義時との決戦を意図して築かれたのでしょうか…。

さらに公園の西側には、「泉小次郎馬洗いの池」と呼ばれる池があります。
その名の通り、泉小次郎親衡が馬を洗ったと伝えられる池。池の水は枯れたことがないため、古くから雨乞いの行事が行われたといいます。

■泉親衡ゆかりの寺社

周辺には、泉親衡ゆかりの寺社が建ち並んでいます。
公園の北西に建つのは「長福寺」。親衡が道場として創建したのが始まりとされる伝承地です。

そのすぐ近くに建つのが「須賀神社」
こちらは、親衡が京都の祇園社「八坂神社」の牛頭天王を勧請したのが始まりと伝えられます。北条義時打倒をここで祈願したのでしょうか…。

さらに西へ向かうと、親衡の守り本尊とされる「滝前不動尊」があります。
かつて堂の左右に「男滝」と「女滝」があったことから「滝前」と呼ばれているのだとか。堂内には、不動尊と「和泉小次郎親衡守尊」と書かれた石塔が置かれていました。


さて、幕府の兵を返り討ちにして逐電した親衡ですが、その後の行方は不明です。
埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起には、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家。「静海」と名乗って文永2年(1265年)に満88歳で没したとされます。

一方、親衡の密謀に与した者には、信濃や木曾の武士に加え、和田義盛の子息義直と義重、甥の胤長も含まれていました。
このことが、和田義盛と北条義時の戦い「和田合戦」を引き起こすことになるのです。それはまた、次の「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ることとしましょう…。

■基本情報

名称:泉小次郎親衡館
所在地:神奈川県横浜市泉区和泉中央南4丁目22
アクセス:相鉄「いずみ中央」駅から徒歩5分

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