家康を辿る城旅「熱田羽城・加藤図書屋敷跡」!家康苦渋の生涯の始まり…尾張織田氏のもとへ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「熱田羽城・加藤図書屋敷跡」!家康苦渋の生涯の始まり…尾張織田氏のもとへ…です。

■家康を辿る物語

天文16年(1547年)、織田信秀(信長の父)が岡崎に総攻撃の構えを見せると、松平広忠(家康の父)は今川義元に援軍を求めます。
義元は見返りに人質を求めたため、数え6歳の竹千代(後の家康)が駿府に送られることになりました。

しかし、駿府に送られる途中で、護送役の戸田康光の裏切りに遭い、その身柄は尾張の織田信秀のもとに送られました。
こうして竹千代は、敵方の織田氏が治める尾張の地で2年ほどを過ごしました。

このとき、織田信長と知己を得たという説がありますが、それを示す史料は残っていません…。
家康の忍耐の人生はここから始まります。後の駿府まで約13年間の人質生活を送ることになるのです。

■熱田羽城・加藤図書屋敷跡

戦国の世とはいえ、なんとも切ないですね…。
生母・於大と別れ、さらに6歳にして人質として他国に送られるとは…。

しかも、護送役の裏切りに遭って敵方の尾張に送られるって、考え得る選択肢の中で最悪の事態でしょう。
ただ近年の研究では、岡崎城が織田軍に攻め落とされたという文書が発見され、竹千代の人質は松平広忠の降伏の証しであった可能性が指摘されています。

そうなると、戸田康光の裏切りそのものが無かったことになりますね…。
なお、戸田康光ら一族は間もなく今川義元に攻め滅ぼされているので、真偽のほどは定かではありません

理由はともかくとして、竹千代(家康)が尾張で約2年の人質生活を送ったことは確か。
その場所が今に伝えられています。それが、「熱田羽城・加藤図書屋敷跡」(名古屋市熱田区)です。

その名の通り、織田信秀に従っていた熱田の豪族・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)の屋敷跡。別名「熱田羽城」です。
いま当地を訪れると、「羽城公園」という小さな公園の片隅に、ひっそりと案内板があるのみ…。当時の遺構は残っていません。

順盛は竹千代のことを手厚く養ったようです。人質時代から20数年後、順盛が家康に陣中見舞を送った際、家康はきちんと返書を書いています。
人生、その先はどうなるか分からないんだから、きちんと人に相対するって大切ですね…。

■熱田神宮

せっかく熱田の地に来たんだから、「熱田神宮」に足を運びましょう。
三種の神器のひとつである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀る神社です。

いまもご利益を求めて、日本全国から多数のひとが訪れる神聖な神社ですが…。
戦国時代もここに必勝を祈願して訪れた武将がいます。そう…織田信長です。

信長は、運命を左右する桶狭間出陣の際、熱田神宮を訪れて必勝祈願を行いました。
その結果は歴史が示す通り。世紀の大番狂わせが起きたのは、熱田神宮のおかげかも…。

信長も喜びひとしおだったことでしょう。合戦後、勝利の御礼として築地塀(ついじべい)を奉納しました。
それが「信長塀」と呼ばれる重厚な土塀。「日本三大土塀」の一つとされています。


今日の夢中は、竹千代(家康)が人質生活を送った尾張の地を訪れました。
果たして、そのとき信長と出会っていたのでしょうか…。史書に残るものはないですが、その後の両者の関係や信長の好奇心を考えると、信長が熱田の家康のもとを訪れたとしてもおかしくありません。

そして、この尾張で過ごしたことは、大なり小なり、その後の家康の運命を左右していくのです。
それについては、また後の当ブログで語ることにしましょう。

■基本情報

名称:熱田羽城・加藤図書屋敷跡
住所:愛知県名古屋市熱田区伝馬2丁目13−4
アクセス:名古屋市営地下鉄名城線「熱田神宮伝馬町」駅から徒歩5分

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