家康を辿る城旅「刈谷城」!生母於大が幼い家康と別れ過ごした"椎の木屋敷"も

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「刈谷城」!生母於大が幼い家康と別れ過ごした"椎の木屋敷"も…です。

■家康を辿る物語

尾張国知多郡を治める豪族・水野忠政の娘、於大の方(おだいのかた)。
隣国の松平広忠のもとに嫁ぎ、待望の男児をもうけます。その子は竹千代、後の徳川家康でした。

しかし、忠政の死後、家督を継いだ兄・信元が、松平氏が従う今川氏と敵対する織田氏につきます。
於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁され、実家・水野氏の刈谷城に返されました。

幼いわが子と引き離された於大ですが、愛情は変わることなく、その後も音信を取り続けました。
そして、運命のときは2人を再び引き寄せます。尾張と三河に戦雲うごめく只中で、於大は成長した家康と対面を果たすことになるのです…。

■刈谷城

家康を辿る城旅…。今回は、家康の生母・於大の方ゆかりの地を訪れます。
幼いわが子のもとを離れて於大が戻ったのは、生家・水野氏が治める刈谷の地でした。

その水野氏の居城が「刈谷城」です。場所は三河国刈谷、現在の愛知県刈谷市です。
築城したのは於大の父・水野忠政。天文2年(1533年)に刈谷城を築くと、本拠を緒川から刈谷に移しました。

現在、城跡のうち本丸および帯曲輪の一部が「亀城公園」となっています。
名称は刈谷城の別名(亀城)に由来しますが、残念ながら当時の建物や遺構はほとんど残っていません…。

それでも、広大な敷地から、当時の水野氏の威容を偲ぶことができます。
公園の東側に広がる池は、当時の帯曲輪の堀を拡幅したもの。今は刈谷市民に憩いの空間を提供しています。

さらに、池(堀)に囲まれた中心部にある小高い丘陵…こちらが本丸跡です。
廃藩後に城郭の建造物は取り払われました。本丸跡は太平洋戦争末期に高射砲陣地とされましたが、戦後整備が進められ、今は美しい日本庭園が広がっています。

ところどころに、土塁の跡も残っています。詳細は分かりませんが、一部は戦国期の名残りかもしれません。
なお現在、残存する絵地図から江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀を復元する計画が進んでいます。これは楽しみですね…。

■椎の木屋敷

刈谷城の近くに、松平広忠と離別して戻った於大が過ごした場所があります。
それが「椎の木屋敷」。かつて当地にシイの木が生い茂っていたことから、そう呼ばれました。

江戸時代には、一般の出入りは禁じられ、屋敷の出入口に鍵がかけられていたそうです。
何しろ、神君・家康の生母が一時暮らした場所ですからね…。聖地として扱われたのでしょう。

明治期になって、この土地を譲り受けた井野氏が庵室をもうけ、庭園を整備しました。
やがて当地の多くが宅地化されましたが、一部は刈谷市が取得して史跡として整備、一般に開放されています。

いま同地を訪れると、周囲より5mほど高くなっている台地に美しい庭園が広がります。
そして、その一角には於大の坐像も…。於大の目線は、わが子・竹千代のことを思ってか、岡崎の方角に向けられています。

戦国の世とはいえ、せつない別離でしたからね…。
3歳のわが子と離れるのは、於大にとって胸が裂けるほど悲しい出来事だったのではないでしょうか。

於大は、幼くして別れた家康のことを忘れることはありませんでした。
後に坂部城主の久松俊勝のもとに再嫁しますが、この間も絶えず家康と音信を取り続けました

そして、やがて成長した家康と再会を果たします。それは、時代が風雲急を告げる桶狭間の戦いの頃でした…。それはまた別の機会に紹介しましょう。

■基本情報

【刈谷城跡】
住所:愛知県刈谷市城町1丁目49
アクセス:JR「刈谷」駅から徒歩30分またはバス、名鉄「刈谷市」駅から徒歩15分
営業時間:24時間

【椎の木屋敷】
住所:愛知県刈谷市銀座6丁目58−1
アクセス:JR「刈谷」駅から徒歩25分またはバス、名鉄「刈谷市」駅から徒歩10分
営業時間:24時間

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