なぜ家康は妻子を死に追いやったのか?松平信康事件と浜松ゆかりの史跡

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、なぜ家康は妻子を死に追いやったのか?松平信康事件と浜松ゆかりの史跡です。

(清瀧寺)

■松平信康事件の真相

松平信康事件。天正7年(1579)、徳川家康の嫡男・信康と正室・築山殿が死に追いやられた事件です。
謎の多い事件ですが、前回の当ブログで、通説で言われているような織田信長の命令ではなく、家康自身が厳しい処断を下したという説を紹介しました。

家康が自らの手でわが子と妻を粛清した…。家康ファン、特に「どうする家康」の松潤家康ファンの皆さんにお叱りを受けるような説です。
しかしこの説、当時の諸情勢を見ると、いろいろと符合が合うのも事実です。

たとえばこの4年前に、信康の家臣・大岡弥四郎が武田勝頼に内通し、武田勢を岡崎に引き入れようとする謀反が発覚。弥四郎と妻子は処刑されました。
理由は個人的な恨みとされますが、それだけで勝頼と内通したとは思えません。信康家臣には武田方と通じようとする動きがあったのでは?それが露見したことで、弥四郎は見せしめとして極刑に処されたのではないか…。

さらに、築山殿が減敬という甲州医師と密会して武田氏と通じたという逸話もあります。
築山殿も謀反に加担していたのか…。真偽のほどは分かりませんが、築山殿は今川方の出身…今川家を滅亡させた織田家と結ぶ家康の姿勢を不快に思っていたかもしれません。

信康と築山殿は、家康の意に反し、武田方と通じようとしていたのか…。
「安土日記」や家康の書状には、信康に「逆心の雑説」(謀反の噂)や「不覚悟」があったと記されています。この頃、信康の周辺で何らかの不穏な動きがあったものと考えられます。

事実とすれば、それは実質的に従属関係にある織田家を怒らせるだけでなく、これまで固い結束を誇ってきた徳川家中を分断・崩壊させるものになります。
徳川家の将来を揺るがす事態…。家康はなんとしても事態をおさめなければなりませんでした。そして、苦渋の決断をします。

家康は自らの判断で、信康と築山殿の処刑を言い渡した…というのが、いま支持を得ている松平信康事件の新説です。
もちろん明確な史料も残っていないため、真相は不明…。ただ、信康と築山殿がこのとき命を失ったのは事実です。いろいろと思うところが多い事件ですよね…。

■浜松ゆかりの史跡

謎多き松平信康事件…。家康はなぜ妻子を死に追いやらなければいけなかったのか。
真相は闇のなかですが、両者の間に如何ともしがたい溝が生じたことは間違いないようです。

前回の当ブログでは、愛知岡崎に残る信康・築山殿ゆかりの史跡を訪ねました。
今回はもう一つの家康ゆかりの地へ。静岡浜松にある信康・築山殿ゆかりの史跡を訪れましょう。

まずは、築山殿ゆかりの史跡へ。築山殿の墓所のある「西来院」です。
西来院は、築山殿が命を断った佐鳴湖から2kmほど東、静岡浜松の閑静な住宅街のなかにあります。

(西来院)

ここ西来院の本堂の近くに、築山殿の墓所はあります。築山殿の霊廟「月窟廟」です。
ときが経っても大切に廟は守られていました。築山殿、享年38歳。家康はその死を哀れみ、潙翁禅師に命じてこの地に手厚く葬ったと伝わります。

(月窟廟)

続いて、信康ゆかりの史跡へ。信康は岡崎城を追われ、大浜城、堀江城へと身柄を移されました。
そして二俣城に幽閉されると、そこで家康の命により切腹させられました。享年21歳。

(清瀧寺)

亡骸は、城から峰続きにある小松原長安院に葬られました。翌年、家康は同院に信康の位牌堂を建立。
その後、脇を流れる清涼な滝にちなみ、寺名を「清瀧寺」と改めさせました。信康の魂も清らかに眠っているといいですね…。境内には信康の墓所「信康廟」があります。

(信康廟)

徳川家中を揺るがした松平信康事件。家康は妻子を処断することで、徳川家の分断・崩壊を防ぎました。
戦国時代だから止むを得ないとはいえ、どうしても思ってしまいます。家康と妻子に生じた溝…時間をかけて修復することはできなかったのか。悲しい事件に胸の詰まる史跡めぐりでした。

■基本情報

【西来院(月窟廟)】
名称:静岡県浜松市中区広沢2丁目10−1
アクセス:浜松駅からバス「広沢一丁目」下車徒歩5分

【清瀧寺(信康廟)】
名称:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405
アクセス:天竜浜名湖鉄道「二俣本町駅」から徒歩約10分

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