信長の後を継ぐのは誰か?柴田勝家と羽柴秀吉、最終決戦「北ノ庄城」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、信長の後を継ぐのは誰か?柴田勝家と羽柴秀吉、最終決戦「北ノ庄城」です。

■家康を辿る物語

絶対的な主君・織田信長の死により、織田家臣団は分裂を余儀なくされます。
特に激しく対立したのは、家臣団筆頭格の柴田勝家と新進気鋭の羽柴秀吉でした。

天正11年(1583年)ついに両者は激突。賤ケ岳砦をめぐり激しい戦闘が繰り広げられます。
一進一退の攻防が続いた戦は、賤ケ岳七本槍と呼ばれる秀吉麾下の武将の活躍や勝家側にいた前田利家の戦線離脱により、勝家が敗走。秀吉の勝利となりました。

勝家は越前・北ノ庄城に逃れますが、敗軍の将に従う兵は3千ほどに過ぎませんでした。
秀吉は、自軍に降った前田利家を先鋒として北ノ庄城を攻撃。死を覚悟した勝家は、近臣を天守に集めて別れの宴を催すと、翌日最後の戦いに打って出た後、天守にて自害しました。

このとき、勝家は正室・お市の方(信長の妹)に城を出るように勧めましたが、お市の方はこれを拒絶、勝家とともに自害しました。
一方で、お市の方は3人の娘の行く末を案じて、秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めたといいます。

■北ノ庄城

王者・織田信長の後を誰が継ぐのか…
信長麾下の各武将の思惑が交錯するなか、ついに柴田勝家と羽柴秀吉が激突。秀吉が勝利して、戦国の雄に一気に躍り出ました。

今日は、その秀吉と最後まで争った武将、柴田勝家の最期の地を訪れましょう。
勝家の領した越前国、現在の福井市にある「北ノ庄城」です。

(北ノ庄城跡、柴田神社)

同城は、信長から越前国を与えられた勝家が、自らの縄張によって築城しました。
要所に石垣や土塁・堀をもうけ、7層(一説には9層)構造の天守を抱く巨大な城郭だったと伝わります。

しかし、北ノ庄城の戦いで勝家が敗れると、城に火が放たれ建造物のほぼ全てが焼失
残念ながら今は石垣の一部が残るのみ、城の遺構はほとんど残っていません。安土城に匹敵する巨城とも伝わるだけに残念ですね…。

(北ノ庄城跡、拝殿下の石垣)

現在は柴田神社(柴田公園)となっている城跡には、柴田勝家の銅像が建っています。
信長の父・信秀の代から織田家に仕え、家臣随一の猛将と呼ばれた武将。しかし、旭日の勢いでのし上がった秀吉に最後は敗れました。

(柴田勝家の銅像)

そのすぐ近くに、お市の方と3人の娘の像もあります。お市の方は、先夫・浅井長政そして柴田勝家と、いずれも秀吉の攻撃によって命を奪われました。
そして今回は自らの命も絶っています。3人の娘は後に秀吉に庇護されます。その長女が茶々、後に秀吉の側室となる淀の方です。

(お市の方の銅像、3人の娘の銅像)

北ノ庄城跡から足を伸ばして、足羽山のふもとにある「西光寺」へ。
柴田勝家そしてお市の方の菩提寺です。もとは一乗谷にあったものを勝家が同地に移設したと伝わります。

(西光寺)

境内には、柴田勝家とお市の墓があります。安らかに眠っていることを祈るばかり…。
なお、2人の辞世の句は次のとおりです。

夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす(柴田勝家)
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな(お市の方)

(柴田勝家とお市の墓)

なお、北ノ庄城ですが、関ヶ原の戦い後に家康の次男・結城秀康が同地を拝領すると、2km四方に及ぶ巨大な城郭を築きました。
現在に残る福井城がそれですが、この「結城北ノ庄城」が、勝家の築いた「柴田北ノ庄城」を改築したものか、結城氏が全く別の城として築いたものか、今なお論争のあるところです。

■基本情報

名称:北ノ庄城跡
住所:福井県福井市中央1丁目21
アクセス:JR福井駅から徒歩5分

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