徳川対北条"天正壬午の乱"甲斐の覇権の行方は?北条軍の本陣跡「若神子城」

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、徳川対北条"天正壬午の乱"甲斐の覇権の行方は?北条軍の本陣跡「若神子城」です。

■家康を辿る物語

天正10年(1582年)に勃発した「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)。
信長の死により空白地と化した旧武田領をめぐって、徳川軍と北条軍が激しく対峙しました。

徳川家康は、武田遺臣を積極的に自軍に取り込み、甲斐の併呑をうかがいます。
そして大久保忠世ら重臣を甲斐に派遣すると、かつて武田勝頼が一時本拠とした新府城に本陣を置きました。

一方の北条氏政・氏直父子は、織田配下の滝川一益を上野国から追い払うと、さらに甲斐に侵攻。
徳川軍が布陣した新府城に対抗して、そこから9㎞ほど北に位置する若神子城に本陣を置き、周辺に城砦を築きました。

徳川軍と北条軍は、10㎞にも満たない距離で睨み合いを続けます。
膠着する戦局を打開するために、北条軍が新府城南方の黒駒に進軍しますが(黒駒合戦)、寡兵の徳川軍が北条軍を撃退しました。

睨み合うこと約80日。天正10年(1582年)10月、ついに和睦が成立
講和の条件は、氏直に家康の娘・徳姫を娶らせる、甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しないというものでした。

これにより、信長の死に端を発した「天正壬午の乱」はようやく決着
家康の領国は、三河・遠江・駿河に甲斐・信濃を加えた5か国にまで拡大することになったのです。

■若神子城

徳川と北条が甲斐国の覇権をかけて争った「天正壬午の乱」
前回は、家康が本陣を置いた新府城を訪れました。

今日は、北条軍が本陣を置いた「若神子城」(わかみこじょう)を訪問しましょう。
伝承では、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の築城と伝わる古城。現在の山梨県北杜市にある城です。

城跡の一部は現在、地元の人たちが憩う「ふるさと公園」として整備されています。
中心部にある広場は、かつての主郭であったと考えられます。

公園整備に伴い行われた発掘調査で、「天正壬午の乱」当時のものと思われる遺構が見つかりました。
なかでも北条氏の築城の特徴とも言える「薬研堀」は、規模は小さいながらも当時をしのぶことができます。

台地の上部で平坦だった公園から先に進むと、いかにも山城らしい隘路が続きます。
若神子城は、公園になっている古城を中心に、北側に北城、南側に南城を構える連郭城郭。ところどころに巨岩もありました。

かつては近隣の山城と連絡をとるために狼煙台も置かれたといいます。
確かに主郭とされる古城から眺望が開けています。霊峰富士の姿も見えました。

北条軍がここに本陣を構えて、新府城の徳川軍と睨み合うこと約80日
ついに和解が成立。徳川・北条の同盟が成立し、北条軍は甲斐から撤退しました。

■基本情報

名称:若神子城跡
住所:山梨県北杜市須玉町若神子
アクセス:JR日野春駅から徒歩30分または車

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