城ぶら「仙台城」独眼竜政宗ここにあり!東北仙台に残る夢と野望の跡

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、独眼竜・伊達政宗の夢と野望の跡、仙台城、通称「青葉城」です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

仙台城は、戦国武将・伊達政宗が慶長5年(1600年)から2年かけて築いた城です。
標高203mの小高い青葉山につくられたことから、「青葉城」とも呼ばれています。

この地には、伊達氏が入城する以前から城がありました。
「千体城」あるいは「千代城」と呼ばれ、戦国末期には正宗の叔父にあたる国分盛重が治めていましたが、政宗と対立して出奔。千代城は廃城となりました。

この地に目をつけたのが伊達政宗です。
これまで宮城県北部の岩出山城を居城にしていましたが、関ヶ原の戦い(1600年)の働きが認められ加増されると、ここ仙台に拠点を移しました。
このとき地名を「千代」から「仙台」に改めています。

政宗は大規模な土木工事を行い、青葉山に石垣・土塁で防御した本丸を築きました。
天守はつくりませんでしたが、四方を断崖、山林、河川に囲まれた城は、まさに天然の要害。いくさ人・伊達政宗の気概を感じる難攻不落の城です。

城は、江戸時代に火災や地震で被害を受けますが、その都度再建されます。
しかし、明治15年(1882年)の大火によって多くの建物が焼失。さらに、昭和20年(1945年)の米軍による仙台空襲により残る建物もほとんど焼失
いまは、残る広大な跡地が当時の威容を伝えています。

■城ぶらり(三の丸跡)

それでは、そんな伊達政宗が築いた仙台城跡をぶら歩きしましょう。
仙台市地下鉄に乗って、「国際センター」駅へ。副駅名が「仙台城跡入口」とあるとおり、青葉山の麓にある駅です。

駅を出てしばらく歩くと、「史跡 仙台城跡」の石碑が建っています。仙台城の「三ノ丸跡」です。
周囲には五色沼や長沼と呼ばれるがめぐらされていて、その内側に築かれた土塁から往時を偲ぶことができます。

三の丸跡には現在、仙台市博物館が建っています。ここには伊達政宗に関する資料もたくさん所蔵されています。
館の裏手に、伊達政宗胸像があります。大きな三日月がつけられた兜がカッコイイですよね。

三の丸には、築城当初、政宗の屋敷が営まれていたそうです。二代忠宗が二の丸を造営すると、この地は蔵屋敷へと姿を変えました。
その出入り口となるのが、北側の「子門」(ねのもん)と南東側の「巽門」(たつみもん)。巽門は、戦前まで建物が残っていましたが、仙台空襲で残念ながら焼失しました…。

巽門跡を通って、青葉山上部の本丸を目指して歩きます。もちろん、登り坂…。
途中には、「清水門跡」(しみずもんあと)、「沢門跡」(さわのもんあと)があります。いずれも往時は曲輪に建物等があったと伝えられています。

■城ぶらり(本丸跡)

坂を登って、いざ本丸へ…。その北側にどでかい石垣がそびえ立っています。
「本丸北壁石垣」と呼ばれる巨大な石垣。発掘調査の結果、政宗の築城時を含め3時期の石垣が重複していることが明らかになっています。

石垣の脇を歩いていくと、本丸「詰門跡」。今は宮城県護国神社の鳥居が建っています。
詰門は、本丸の登城口に建てられた門で、二階建・瓦葺の荘厳な造りだったようです。こちらも焼失してしまったのはほんと残念…。

詰門跡を抜けると、目の前に広がるのが本丸「大広間跡」です。
天守が造られなかった仙台城において中心的な建物が大広間でした。発掘調査で確認された礎石跡の位置に新たな礎石を配置し、当時の建物規模や部屋割りを表現しています。

大きさは東西33.5m、南北26.3m。畳敷き部分は260畳にもおよび、俗に「千畳敷」と呼ばれていました。
「孔雀の間」、「檜の間」、「虎の間」、「鹿の間」、藩主の座る「上段の間」など全部で14の部屋があったそうです。さすがは東北の雄、圧巻ですね…。

その東北の雄、伊達政宗の騎馬像が凛々しく建っています。
宮城県出身の彫刻家、小室達さんの作品。政宗の仙台城入城時の姿をモチーフとしています。

仙台城に入城するまでの政宗の暴れっぷりは半端ありません。
18歳で家督を継ぐと、隣国の戦国大名を次々と打ち破り、急速に版図を拡大。5年も経たずに南東北を手中におさめ、全国に名の轟く有力武将にのし上がりました。

生まれるのが10年早ければ天下を取れていたと評される伊達政宗…。
その野望は、ことごとくときの天下人、豊臣秀吉、徳川家康に阻まれます。
仙台城に入城したとき、政宗は30代半ば。難攻不落の城を築城したのは、まだ天下取りの野望が消えていなかったからかもしれません。

■城ぶらり(大手門、二の丸)

それでは、伊達正宗の夢と野望の跡を今少し巡りましょう。
広瀬川を見下ろす東側の崖の上にある「懸造跡」(かけづくりあと)。いまはベンチがあるだけですが、当時の再現図は戦国ロマンを呼び起こします。

さらに、本丸の南東部に位置する「巽櫓跡」(たつみやぐらあと)。
ここには築城期に三重櫓が造られたと考えられています。発掘調査でも石垣が確認されています。ここから、政宗の眠る瑞鳳殿のある経ヶ峯(きょうがみね)が見えました。

仙台城本丸を後にして、青葉山を下り、二の丸方面へ向かいます。
しばらく歩いていくと、仙台城の正門に当たる「大手門跡」。往時は、説明版に残る写真が示す通り、高さ約12.5mと全国でも最大級の城門がありました。

残念ながら仙台空襲で焼失…。門の北東の石垣上にある土塀は焼け残り、仙台城内に現存する唯一の構築物となっています。
その大手門の南側に配されているのが「大手門脇櫓」です。同じく仙台空襲により焼失しましたが、こちらは昭和42年(1967年)に再建されました。

その大手門を入って右側(北側)、青葉山の麓に広がるのが「二の丸跡」です。
二の丸は寛永15年(1638年)、二代忠宗によって造営され、藩主の日常生活の場として使用されていたと考えられます。

二の丸跡は現在、東北大学川内キャンパス、青葉山公園二の丸広場となっています。
その入口には、伊達家家臣の支倉常長の銅像が建っています。常長は、正宗の命により遣欧使節としてヨーロッパに渡航。日本で初めて太平洋・大西洋の横断に成功しました。

正宗はグローバルな視野も持っていたんですね。彼がつくろうとしたのはどんなニッポンだったのでしょうか…。
今日の城ぶらは、伊達政宗の夢と野望の跡、仙台城。見どころも夢もいっぱいの城跡でした。

ありがとう、仙台城! ありがとう、伊達政宗!

■基本情報

名称:仙台城址(青葉城址)
所在地:宮城県仙台市青葉区天守台
アクセス:仙台市地下鉄東西線「国際センター」駅から徒歩15分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事