城ぶら「新井城」!北条対三浦再び…北条早雲と三浦父子、3年に及ぶ執念の籠城戦

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「新井城」!北条対三浦再び…北条早雲と三浦父子、3年に及ぶ執念の籠城戦です。

■三浦対北条再び

鎌倉時代中期に起きた鎌倉幕府の内乱、宝治合戦
幕府創設以来の盟友にして最大の政敵である北条氏と三浦氏がついに武力衝突しました…。

その因縁の戦いから約270年後、再び両雄が激突します。
えっ?三浦一族は、宝治合戦で北条氏に敗れて滅亡したのでは…?

確かに三浦宗家は滅びました。しかし、一族のなかで幾人かは、三浦氏持ち前の「執念」とも言うべき粘り強さで生き残りました。
生き残ったのは、分家ながらも三浦義村の血を継ぐ佐原氏。彼らは宝治合戦の折、三浦宗家を裏切って北条方につくと、その後、三浦介の名乗りを受け継ぎました。

時は下って戦国時代…。三浦氏の当主となったのは三浦義同(道寸)。彼は上杉家から養子に入ると、養父の命を奪って三浦の棟梁となりました。
この道寸の前に立ちはだかったのが、伊豆相模に覇を唱えた北条早雲でした。彼は北条を名乗ってはいるものの、血の繋がりは全くない戦国の奸雄でした。

三浦対北条…。なんとも奇妙な宿縁です。しかも、いずれも一筋縄でいかない奸雄…。
宝治合戦から約270年を経て、三浦と北条は再び刃を交えることになったのです。

■新井城の戦い

その戦いの場となったのが、三浦一族の父祖伝来の地、三浦半島…。
その西端、海に面した岬状の高台に「新井城」がありました。築城の年月は不詳ですが、鎌倉時代に三浦介の名を継いだ佐原盛時が本拠を構えたと考えられています。

現在、本丸があったとされる場所は東京大学の敷地となっていて一般の立ち入りはできません。
しかし、当地を訪れると、その周辺に土塁や堀切と見られる遺構が残っています。

戦国時代に入ると、三浦氏に内紛が起り、三浦義同(道寸)・義意の父子が新井城を奪います。
道寸は新井城を義意に任せて相模に勢力を伸ばしますが、その前に立ちはだかったのが北条早雲でした。

早雲は、伊豆から勢力を拡げ小田原城を奪取すると、関東相模に進出します。
三浦父子はこれに抵抗し挙兵。小田原を攻めるなど武勇を見せますが、次第に早雲に追い込まれ、新井城に退却します。

三浦父子は、早雲の攻撃をよくしのいで、3年にわたる籠城戦を繰り広げます。
しかし、ついに限界に達した三浦氏が城門を開いて打って出ると、激戦の末に新井城は陥落…。

道寸は自刃、義意は討ち死に。三浦氏は滅亡しました(新井城の戦い)。
このとき、三浦一族の血で海が油の壺のように真っ黒に染まったことから、「油壺」の名が付いたと言われています。

■三浦父子の墓

旧油壺マリンパーク(2021年9月30日閉館)の近くに、三浦父子の墓があります。
この広大な敷地も新井城の一部であったと考えられます。

旧マリンパーク駐車場のすぐ脇に、新井城の碑三浦義意の墓があります。
義意は、身長2mを超える巨漢で、金砕棒ひと振りで5~10人倒したといいます。しかし圧倒的な戦力差を埋めることはかなわず、21歳の若さで討死しました。

さらに、その脇道を海辺に降っていくと、三浦氏最後の当主・三浦義同(道寸)の墓があります。
北条早雲の最大のライバル、日本籠城史に残る3年もの攻防戦を遂げた戦国の雄。その墓は海を眼下に望む場所にありました。

それにしても、3年もの籠城戦ができたのは、この地が天然の要害にあるからでしょう。
海岸に降りて城跡を見上げてみると、断崖絶壁。城跡のある高台は標高26メートル。湾も入り組んでいて大軍で攻めづらい形状です。

内陸からの攻め口には、深い堀切を設け、城内との行き来には「引橋」を架けて往来を制限していました。
今も油壺の入口に地名として残る「引橋」は、当時の名残りを今に伝えています。

北条対三浦…。鎌倉時代の宝治合戦から270年の時を経て相対した両雄。
この戦いの勝利した北条氏は、早雲以来5代100年にわたり関東に覇を唱えることとなったのです。

■基本情報

名称:新井城
所在地:神奈川県三浦市三崎町1024
アクセス:京急「三崎口」駅からバス「油壺」下車、徒歩5分
時間:24時間


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