北条対三浦「宝治合戦」!因縁の戦いの果て…鎌倉「三浦一族のやぐら」

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条対三浦「宝治合戦」!因縁の戦いの果て…鎌倉「三浦一族のやぐら」です。

■北条対三浦~宝治合戦

内部抗争の果てに多くの有力御家人が散り消えた鎌倉時代初期…。
最後まで生き残ったのが、北条氏と三浦氏でした。

その北条氏と三浦氏が、ついに刃を交えます。
それが、宝治元年(1247年)に起きた鎌倉幕府の内乱「宝治合戦」です。

この乱に先立つこと5年、有力御家人の協調政策をとっていた3代執権・北条泰時が死去します。
これを機に、北条執権体制に不満を抱いていた御家人たちが、反北条の勢力を形成します。

その動きの中心にいたのが、三浦氏当主・泰村の弟、三浦光村でした。
兄泰村は時の執権・北条時頼と和平の道を探り続けましたが、北条氏外戚の安達氏が、光村ら主戦派を挑発します。

そして急遽、安達氏が兵を挙げて三浦邸を襲うと、戦いの火ぶたが切って落とされました。
光村は永福寺に籠り奮戦しますが、やがて北条方に押し込まれると、泰村に促されて法華堂へ…。

そこは、三浦一族がその挙兵を援け、鎌倉に幕府を開くに至った源頼朝の墓所でした。
「兄弟一緒に頼朝公の墓前で死のう」。泰村・光村ら三浦一族と与党500余名は、ここに自刃して果てました。

■三浦一族の墓

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ファンにはお馴染みの三浦一族
北条義時(演:小栗旬)と最後までしのぎを削ったのが、三浦義村(演:山本耕史)でした。

鎌倉殿の13人 完全版 第四集

結局、両者が表立って刃を交えることはありませんでしたが、やはり両雄並び足らず…。
その子孫が雌雄を決することになりました。北条時頼は義時の曾孫、三浦泰村・光村兄弟は義村の子供です。

ちなみに、光村は大河ドラマにもちょっと出ていました。幼名は「駒若丸」
公暁の門弟として仕えていた駒若丸(後の光村)が、父義村を公暁のところに案内するシーンが描かれていました。

後に、義村と公暁の北条氏打倒の野望は潰えます。その野望を光村が受け継いだのでしょうか…。
一方の兄泰村は、その名前が示す通り、北条泰時(義時の子)を烏帽子親とし、泰時の娘を娶っている親北条派…。

両者に様々な葛藤があったことが推測されますが、最後は共に戦い、そして共に果てました
彼らが自刃した法華堂跡のすぐ近くに、三浦一族の墓とされるやぐらがあります。

謀略をめぐらせ幕府内の地位を盤石にした三浦氏ですが、最後は騙し討ちに合うような形で命を落としました。
それを報いと言うのは、少し切ない…。やぐらの前面に北条義時の墓所(法華堂跡)があるのは皮肉な感じです。

なお、宝治合戦には、「鎌倉殿の13人」大江広元の子・毛利季光も参戦しました。
三浦義村の娘(泰村・光村の妹)を妻としていた季光は、三浦方につき奮戦。泰村・光村と共に、ここ法華堂跡で自刃しました。

当地には、その大江広元・毛利季光父子の墓もあります。こちらは三浦一族のやぐらと比べて随分と立派です。
それもそのはず、この毛利季光の血筋から戦国大名・毛利元就が生まれています。この墓所は、江戸時代以降に築かれた、もしくは移設されたものと伝わります。

(左:毛利季光の墓、右:大江広元の墓)

■基本情報

名称:三浦一族のやぐら
住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目5−5
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩20分

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