家康、瀬名と結婚する!義父・関口親永の居城「持船城」駿河湾を見渡す城跡へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康、瀬名と結婚する!義父・関口親永の居城「持船城」駿河湾を見渡す城跡へ…です。

■家康を辿る物語

天文24年(1555年)3月、竹千代(家康)は今川義元のもとで元服しました。このとき14歳。
元服にあたり、義元の「元」の一字を受けて「元信」、後に「元康」と名乗るようになりました。

元服をした家康は、弘治3年(1557年)正月に結婚します。
相手は今川氏一門で重臣の関口親永の娘の瀬名。のちに築山殿(つきやまどの)と呼ばれる女性です。

このとき家康は16歳。築山殿の年齢は不明ですが、家康の2~3歳年上だったと考えられます。
以後、家康は、今川氏の親類衆として重く扱われるようになりました。

(汐見坂から見た景色)

■持船城(汐見坂)

今日の城ぶら「家康を辿る城旅」は、家康の妻・瀬名の父親、関口親永が城主を務めた「持船城」を訪ねましょう。

関口親永は今川家に仕える重臣です。妻は今川義元の妹(養妹とも)とされ、娘・瀬名は義元の姪にあたります。
義元は、瀬名と家康を婚姻させることで、松平氏を今川一門に引き込む狙いがあったと言われています。

その親永が城主を務めたのが「持船城」です。その城があったのは、現在の静岡市用宗(もちむね)。この地名は、当時の「持船」が転じて「用船」「用宗」になったと考えられます。
この用宗の地…現在のJR用宗駅近くの標高70mほどの小高い丘陵に、かつて持船城はありました。

さっそく歩いて攻城しましょう。用宗駅の北東、用宗浅間神社の横から坂道が伸びています。
この道は「汐見坂」と呼ばれる登城路。その名の通り、眼下に駿河湾が見渡せます。さらには富士山も。絶景ですね…。

車道の途中から、山城恒例の山道コースへ…。ここから本丸・二ノ丸までは10分ほど。
随所で海の絶景を楽しめるので、それほど苦ではありません。途中、曲輪跡と思しき場所もありました。

■持船城(二ノ丸、本丸)

まずは、二ノ丸跡へ。建物などの遺構はありませんが、土塁などの構造は当時の面影を残しています。
今は「見晴らし台」として一般に開放されており、絶好のハイキングコースになっています。

続いて、本丸跡へ向かいます。すぐ隣り合った曲輪なのですが、山道の上り下りが必要です。
それもそのはず、二の丸跡(二の曲輪)と本丸(本曲輪)の間には、立派な大堀切が築かれていました。これは、人工的に掘削したんだろうな…。

そんな戦国の城跡をうっとり眺めながら、本丸跡へ。
こちらも建物などの遺構はありませんが、曲輪の形状は当時のままと思われます。「持船城址」の石碑もありました。

ここからの眺望も絶景…。名峰・富士山に駿河湾、その奥にはうっすら伊豆半島が見えます。
駿河の町も一望できます。持船城は、駿府国の海側を睥睨する要衝であったと考えられています。

しかし、そんな持船城も、桶狭間の戦い以降、今川氏が衰退すると武田軍に攻め取られます
さらに徳川軍が奪い取ると、武田軍が奪い返すという激しい交戦の地に…。天正10年(1582年)徳川軍の甲州征伐により武田軍は撤退。この際に廃城になったと伝わります。

なお、家康の義父にあたる関口親永ですが、後に娘婿の家康が今川氏から離反したため、今川氏の重臣の座を追われたものと考えられます。
なかには、氏真(義元の子)から疑われ、切腹したという伝承も…(「松平記」)。

後に家康が当地で激戦を繰り広げたのは、義父の無念を含めいろんな思いが胸を去来したからかもしれません…。
ありがとう、持船城! その後の家康については、また次の「夢中図書館 いざ城ぶら!」で…。

■基本情報

名称:持船城跡
住所:〒421-0124 静岡県静岡市駿河区用宗城山町3
アクセス:JR用宗駅から徒歩15分

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