竹千代、元服して元康となる!織田から今川の人質へ…家康ゆかりの駿府寺社めぐり

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、竹千代、元服して元康となる!織田から今川の人質へ…家康ゆかりの駿府寺社めぐりです。

■家康を辿る物語

天文18年(1549年)竹千代(後の家康)は、人質交換により織田氏から今川氏へ…今川義元の治める駿府に送られました。
このとき竹千代8歳。それから19歳までの12年間を駿府で過ごすことになるのです。

人質と言っても、幽閉されるような窮屈な暮らしではありませんでした。
むしろ、義元の軍師・太原雪斎から教えを受けるなど、貴重な教育の機会を施されました。竹千代は中国の古典などを学んだと考えられます。

さらに、竹千代の養育にあたったのは、このとき駿府にいた祖母の源応尼(げんおうに)でした。
源応尼は、於大の方の実母。義元に孫の育成を願い出ると、身の回りの世話や手習いなどの教育にあたったといわれます。

家康が駿府で過ごした8歳から19歳は、人生において最も多感で知識欲旺盛な時期…。
駿府で受けた教育は、家康の人格形成に大きな影響を与えました。

(竹千代手習いの間(復元)/駿府城)

■臨済寺

今日の城ぶら「家康を辿る城旅」は、家康第2の人質生活を送った地…。
織田から今川へ、人質交換により移った駿府にある家康ゆかりの寺社をめぐります。

最近の研究では、竹千代(家康)の人質時代は不遇をかこったわけでなく、今川家から大切に扱われていたと考えられています。
このときの松平氏は、西三河を治める有力な国衆。今川氏にとって西の織田氏の備えに欠かせない存在でした。その御曹司である竹千代に、義元は特別な教育や処遇を施します。

その一つが、今川氏の軍師・太原雪斎による教諭。雪斎は今川義元に仕えた僧侶で、義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐しました。
その雪斎が竹千代に教育を施したとされるのが「臨済寺」。義元の兄・氏輝の菩提寺で、雪斎が住職を務める禅寺です。

(左:臨済寺全景、右:山門)

残念ながら、「竹千代手習いの間」など館内を見られるのは年2回の特別公開時のみ…。
それでも境内の参観はできます。山門や本堂は荘厳で圧巻…。ここで雪斎から受けた教えは、若き家康の血肉となったと考えられます。

(左:本堂、右:今川神廟)

■華陽院

さらに、駿府の竹千代を温かく支えたのは、祖母の源応尼(げんおうに)でした。
源応尼は、於大の方の実母。竹千代が駿府に送られると、その養育者として身の回りの世話や手習いなどの教育にあたったといわれます。

その源応尼ゆかりの寺社が「華陽院」(けよういん)です。
最初は智源院と呼ばれていましたが、後に家康が祖母のために盛大な法要を営み、その名を源応尼の法名から「華陽院」と改めました。

(華陽院)

境内には、その源応尼の墓があります。人質時代の家康に親身の愛情を注ぎました。彼女の存在がどれほど家康の心を癒したことでしょう…。
境内には他にも、家康5女・市姫の墓や、側室・お久の方の墓もあります。

(左:源応尼の墓、右上:市姫の墓、右下:お久の方の墓)

■静岡浅間神社

今川氏当主・義元も家康を厚く処遇しました。義元からすれば、松平氏は家臣のような一族…。
竹千代はいずれ嫡男・氏真を支える武将です。今川家の次代を支えるホープとして目をかけたものと考えられます。

天文24年(1555年)3月、竹千代は14歳のときに元服しました。
元服式を行ったのが「静岡浅間神社」。賎機山(しずはたやま)の麓にある、豊かな木々に囲まれた駿河国総社です。

(静岡浅間神社 舞殿・大拝殿)

このとき義元は自ら烏帽子親となり「元」の一字を授けると、竹千代は「元信」になりました。
後に「元康」と改め、ここに松平元康が誕生しました。駿府今川を支える次代の武将…そんな期待をかけられた元康ですが、戦国の只ならぬ風雲が彼の運命を大きく変えていくのです…。

(左:楼門、右:大歳御祖神社)

■基本情報

【臨済寺】
住所:静岡県静岡市葵区大岩町7−1
アクセス:JR静岡駅からバスで15分「臨済寺」バス停下車
営業時間:9:00~16:00

【華陽院】
住所:静岡県静岡市葵区鷹匠2丁目24−18 華陽院
アクセス:JR静岡駅から徒歩15分
営業時間:24時間

【静岡浅間神社】
住所:静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102−1
アクセス:JR静岡駅からバスで10分「赤鳥居 浅間神社入口」バス停下車
営業時間:9:00~17:00

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