長久手合戦を左右した家康の動きとは?家康本陣跡「色金山」と「御旗山」

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、長久手合戦を左右した家康の動きとは?家康本陣跡「色金山」と「御旗山」です。

■家康を辿る物語

羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍が激突した小牧・長久手の戦い
膠着する戦況を打破するために、秀吉軍が家康不在の三河を奇襲する策に出ます。その編成は、第一隊・池田恒興、第二隊・森長可、第三隊・堀秀政、第四隊・羽柴秀次、総勢2万…。

天正12年(1584年)4月6日夜に密かに出陣した秀吉軍でしたが、その動きは忍びからの情報で家康軍の知るところとなりました。
家康軍は4月8日夜に小牧山を出陣。翌9日の明け方、水野忠重や榊原康政率いる別動隊が、羽柴秀次軍の背後から襲いかかります。

思わぬ奇襲によって秀次勢は四散、潰滅的打撃を被ります。秀次は自身の馬を失い供回りの馬で逃げ遂せる有り様でした。
勢いに乗った別動隊は、さらに堀秀政軍にも攻撃を仕掛けますが、これは返り討ちにあい押し返されました。

同じ頃、家康本隊は色金山に着陣。家康はそこで、別動隊の勝利や敗走などの情報を得ます。
そうした戦況を見て、家康はさらに動きます。色金山から富士ヶ根に陣を進めると、堀秀政勢に圧力をかけました。

この判断が功を奏します。秀政は、家康の馬印である金扇を見て形勢の不利を悟り、池田・森軍の援軍要請を無視して軍を後退させました。
こうして家康は、秀吉軍の分断に成功。そして4月9日午前10時、いよいよ長久手決戦のときを迎えるのです。

■色金山と御旗山

佳境を迎える小牧・長久手の戦い。今日は、その鍵を握った家康本人の動きを追いましょう。
この日訪れるのは、家康本隊がはじめに陣を置いた「色金山」と、その後に陣を進めた「富士ヶ根」(現:御旗山)です。

まず最初に、家康本隊が布陣した「色金山」へ。現在は「色金山歴史公園」として整備されています。
標高90mほどの山ですが、山頂には展望テラスが設けられていて、そこから眼下を一望できます。

家康は、この山に金扇の馬印を立て四方を眺めて、軍議を開いたといいます。
今も残る山頂の巨石は、そのとき家康が床机がわりに腰掛けたという逸話にちなみ、「床机石」と呼ばれています。

そこで行われた軍議が、後の戦況を大きく左右することになります。
別動隊の敗北の知らせを受けた家康は、本隊を色金山から富士ヶ根に陣を移す決断をします。

その場所は、堀秀政の陣からすぐ近くの場所…。家康はそこに馬印の金扇を掲げます。
それを見た秀政は戦況を不利と判断、前方にいた池田・森軍の援軍要請を無視して撤退しました。

現在は「御旗山」と呼ばれる当地には、後年に地元のひとが祀った富士社があります。
その拝殿前には「御旗山」と記す石柱も…。この辺りに金扇が掲げられたのでしょうか。まさに勝利を呼び込む御旗…金扇ですね。

秀吉軍の分断に成功した家康。そしてついに決戦のときを迎えます。
ときは天正12年4月6日、ところは長久手。家康軍と池田・森軍の激戦の火ぶたが切られるのです。その合戦の行方については、次回の当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」にて…。

■基本情報

【色金山歴史公園】
住所:愛知県長久手市岩作色金35
アクセス:長久手古戦場駅から徒歩20分

【御旗山】
住所:愛知県長久手市富士浦602
アクセス:長久手古戦場駅から徒歩15分

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