城ぶら「福岡城」!黒田官兵衛・長政ゆかりの堅牢強固な平山城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、九州福岡にある黒田官兵衛・長政父子ゆかりの城「福岡城」。日本100名城の一つです。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

福岡城の築城は1601年。
その年から7年かけて、総面積80万㎡、東西1km、南北700mの、国内最大規模の平山型の城が築城されました。

築城したのは、黒田長政
大河ドラマ「軍師官兵衛」の主役・黒田官兵衛孝高の嫡男ですね。
長政は、関ヶ原の戦いで活躍し、武功一番としてここ福岡の地・筑前52万石を与えられました。

(官兵衛くんと長政くん)

一方、父・官兵衛は、九州の地から天下を取ることを狙いましたが、息子・長政の活躍で関ヶ原の戦が1日で終わったことから、その野望を断念。
以降、九州福岡に長政と一緒に移り住み、隠居して文化人として余生を送りました。

ちなみに、「福岡」の名は、黒田氏の故地である備前国福岡(岡山県)に由来します。
福岡と改名される前の地名は、福崎でした。

江戸期には歴代の藩主により数度の増改築が行われましたが、明治期の廃城令によって軍用財産となり、その後多くの建造物が解体・移築されました。

残念ながら天守閣は残っていませんが、城門と天守台は残っています。
なお、天守閣があったのかどうかも定かではありません。

■城ぶらり

それでは、黒田父子ゆかりの福岡城をぶら歩きしましょう。
上の橋大手門跡を左に眺めながら進みます。

(上の橋大手門跡)

上の橋を渡ると、「鴻臚館跡」(こうろかんあと)という広大な史跡と出会います。
いわば古代(飛鳥・奈良・平安時代)の迎賓館があった場所で、現在発掘調査が続けられています。

(鴻臚館跡)

先に進むと、東御門跡。「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門です。
家臣らが二の丸、本丸、天守台へと登城する際に通る重要な門でした。

(東御門跡)

続いて「表御門櫓跡」。二の丸北側から本丸に入るための表御門があった場所です。
表御門は、黒田家の菩提寺・崇福寺に移築されたため、現在は石垣のみが残っています。

(表御門櫓跡)

その先には「本丸跡」があります。
本丸は、藩主が政務を行うとともに住居としても使った「本丸御殿」がありました。ここで黒田父子が政談していたのかしら…。

(本丸跡)

天守台への入り口となる「鉄御門跡」(くろがねごもんあと)。
敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。石垣の上には櫓が置かれ、上から攻撃ができるようになっていたとされています。

(鉄御門跡)

その先にある「埋門跡」(うめもんあと)は、さらに狭い…。
大軍では攻め寄せることができませんね…。ここまでたどり着ける侵入者はほとんどいないでしょう。

(埋門跡)

石段を登った先が「天守台跡」です。
展望台になっていて、福岡市内360度のパノラマを楽しめます。
黒田父子も城下を睥睨していたんでしょうか…。

(天守台跡なら臨む福岡市街)

なお、敷地内に約40個におよぶ天守の礎石が残っています。
天守閣の有無はなお議論中ですが、仮に存在したなら、礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたものと推定されます。

(礎石)

天守閣がそびえ立つ福岡…。夢あるなぁ。
黒田父子が叡智をつぎ込んでつくり上げた福岡城。緑生い茂る石垣は、当時の威容を偲ばせます。

南丸(二の丸南郭)にある「多聞櫓」は、江戸時代から残っている数少ない建物のひとつです。
石落としなどが設けられていることから防御のための櫓であったと考えられます。

(多門櫓/北隅櫓)

隣接する大濠公園は、かつて福岡城の外濠であったところ。
いまでは市民の憩いの公園となっています。

ジョギングする人、ベンチで語らいあうひと、戯れる親子…。
こんな福岡の街の土台を築いたのが、黒田父子です。今や日本を代表する大都市ですもんね。
その福岡の名付け親が黒田父子とは知りませんでした…。

ありがとう、福岡城! ありがとう、黒田官兵衛・長政!

■基本情報

名称:福岡城跡
所在地:福岡県福岡市中央区城内
アクセス:大濠公園駅から徒歩5分、赤坂駅から徒歩5分

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