羽柴軍と徳川軍が激突"長久手の戦い"!猛将も散った「長久手古戦場」へ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、羽柴軍と徳川軍が激突"長久手の戦い"!猛将も散った「長久手古戦場」へ…です。

■家康を辿る物語

羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍が激突した小牧・長久手の戦い
家康不在の三河を攻めるというに奇襲策に出た羽柴軍でしたが、徳川軍は忍びの情報でこれを察知しました。

徳川軍は密かに小牧山を出ると、後方を進む羽柴秀次軍を急襲してこれを壊滅。さらに堀秀政軍を圧迫して、前方の池田・森軍と分断することに成功しました。
ここでようやく徳川軍出現の報を得た池田恒興と森長可。三河に向かう途上で占拠した岩崎城から兵をまとめ引き返します。

そして、天正12年(1584年)4月9日、長久手の地で徳川軍と池田・森軍が激突します。
兵数はほぼ互角、 一進一退の攻防が続きますが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死すると徳川軍優勢となります。

なんとか挽回しようとした池田恒興でしたが、家康家臣・永井直勝の槍を受けて討死
将を失った池田・森軍は潰走、合戦は徳川軍の勝利となりました。長久手合戦における羽柴軍の死者は2500余人、織田・徳川軍の死者は590余人と伝わります。

(長久手古戦場跡(古戦場公園))

■長久手古戦場

家康と秀吉が唯一、直接対決した小牧・長久手の戦い。そのクライマックスとも言うべき合戦が、両軍が長久手の地で激突した「長久手の戦い」です。

一大決戦の場となった長久手古戦場は現在、「古戦場公園」として整備されています。
園内に足を踏み入れると、あちらこちらに小山や窪地があります。これは長久手古戦場の地形を縮景という手法で再現したものだそうです。

そんな古戦場の縮景を眺めながら歩みを進めていくと、まさにここが激戦の地であったことを示す史跡がありました。
それが、長久手古戦場跡に建つ史跡、「勝入塚」と「庄九郎塚」という二つの塚です。

「勝入塚」は、池田恒興(入道して"勝入"と号す)が戦死したと言われる場所。
恒興は、織田信長の乳兄弟で、清須会議にも出席した織田家重臣。このときは秀吉に附いて軍を率いましたが、当地で家康の家臣・永井直勝に討ち取られました。享年49才。

「庄九郎塚」は、恒興の長男・元助(幼名"庄九郎")が戦死した地と言われています。
若くから父・恒興に従軍して数々の武功を立てた勇将。長久手参戦時は岐阜城主でした。そんな若き将も当地で戦死。享年は26才とされますが、20代前半だったという説もあります。

もう一つの塚も訪れましょう。古戦場公園から徒歩で5分ほどのところにある小さな緑地。
その一角にあるのが「武蔵塚」。"鬼武蔵"の異名をとる武将・森長可が戦死したと伝わる場所です。

長可は、本能寺の変で信長とともに落命した森蘭丸の兄。甲州征伐など多くの戦で武功を上げ、勇猛果敢な武将として知られます。
そんな猛将も当地で落命。家康軍の鉄砲足軽の狙撃で眉間を撃ち抜かれたと伝わります。享年27才。

■基本情報

名称:古戦場公園(長久手古戦場跡)
住所:愛知県長久手市武蔵塚204
アクセス:長久手古戦場駅から徒歩3分

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