戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った鳥居強右衛門ゆかりの史跡へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った鳥居強右衛門ゆかりの史跡へ…です。

■長篠城の危機を救った鳥居強右衛門

長篠城攻略に押し寄せた武田勝頼率いる武田軍…その数1万5000
一方、籠城する城方は、奥三河の国衆である奥平信昌が率いる寡兵…その数500

奥平軍は地形を生かしてよく戦いましたが、兵糧が尽き数日以内に落城の危機に…。
信昌は家臣である鳥居強右衛門を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康のもとへ援軍を要請させることにしました。

夜陰に紛れて、豊川(寒狭川)に潜って、武田軍の厳重な警戒線を突破した強右衛門は岡崎城に到着。
そこで、信長の率いる援軍3万人が到着し、家康の手勢8,000人とともに長篠へ出撃する態勢であることを知ります。

強右衛門は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返しますが、城の目前で武田軍に見つかり捕らえられてしまいました。
武田軍は強右衛門を厳しく尋問。強右衛門に、命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないから降伏するよう城兵に伝えよと命じます。

表向き承諾した強右衛門は、長篠城の見通しのきく場所に引き立てられると、城方に向かって叫びました。
あと数日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ

これを聞いた武田軍は激怒、強右衛門を磔にして、槍で突き刺し殺しました。
一方、「援軍近し」の情報を得た信昌と城兵は大いに士気を取り戻し、援軍が到着するまで武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功しました。

■鳥居強右衛門ゆかりの史跡

長篠城の危機を救ったヒーロー、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)。
長篠城の味方全員を救うために、決死の脱出を敢行。帰城目前で捕まるも、自らの命を犠牲にして「援軍は来る」と叫びました。

戦国版「走れメロス」なんて呼ばれる活躍を見せた鳥居強右衛門。
前回、長篠城本丸跡にある関連地を訪れ、川を挟んだ対岸に強右衛門が磔された場所を見通しました。

今回はその対岸へ…。実際に強右衛門が磔になった場所を訪れます。
近くを高速道路やJR飯田線が走るところ。ただ、その一角はひっそり時を止めたように自然の風景が残っていました。

(鳥居強右衛門磔の場)

当地には、「鳥居強右衛門磔死之址」と刻まれた記念碑が立っています。
長篠城から見渡せるこの場所で、強右衛門は磔死となりました。ただ、その命がけの叫びは城方を奮い立たせ、猛攻をしのぎ切ることに繋がったのです。

(記念碑と案内板)

この場所からほど近い新昌寺に、鳥居強右衛門の墓があります。
墓石には「わが君の命に替る玉の緒をなどいといけん武士の道」という辞世の句が刻まれています。命を主君の為に捨てるのは武士として惜しくないという意味です。

(鳥居強右衛門の墓)

強右衛門は、主君への忠義を貫いたま36歳で生涯を終えました…。
しかし、その血筋は繋がります。強右衛門の子孫は後に、信昌の子が興した奥平松平家の家臣となり、家老を務めるなど家中で厚遇されました。

■基本情報

名称:鳥居強右衛門磔の場
住所:愛知県新城市有海篠原21−50
アクセス:長篠城址から車または徒歩

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