家康を辿る城旅「曳馬城」!家康、遠江へ侵攻!立ちはだかる女城主とゆかりの椿姫観音

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「曳馬城」!家康、遠江へ侵攻!立ちはだかる女城主とゆかりの椿姫観音です。

■家康を辿る物語

前当主の義元を失ってから、衰退の止まらない今川氏…。
永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田氏が今川領駿河に侵攻を開始します。

同じ時期、家康は武田氏と同盟を結んで、今川領遠江に侵攻します。
狙うは、遠江の曳馬城。城主の飯尾連龍は今川氏を見限って密かに家康と通じ、離反の動きを見せていました。

そのため今川氏真は、言葉巧みに連龍を駿府に呼び寄せると、自邸を攻めて誅殺。
城主を失った曳馬城下は帰属先をめぐって内紛が勃発しましたが、これに介入した家康によって松平氏(徳川氏)の支配下となりました。

一説によると、連龍の未亡人・お田鶴の方が城を守っていましたが、城を渡せば妻子共々面倒を見るという降伏条件を飲まず開戦。
家康はやむなく兵を使って攻め込み、お田鶴は侍女らと共に討ち死にしたと伝わります。

■曳馬城

家康を辿る城旅…。三河から遠江へ、版図拡大に乗り出した家康。
今日は、遠江進出の試金石となった「曳馬城」(ひくまじょう)を訪れます。

曳馬城(引馬城、引間城)は、現在の浜松城の前身にあたる城です。
後に当地に入った家康が、曳馬城の範囲を西に大きく拡大して浜松城としました。

旧曳馬城があった場所には現在、元城町東照宮が建っています。
これは明治維新後に、元幕臣らが家康ゆかりの浜松城の跡に東照宮を建立しようと発意、地元住民の寄付によって建設が進められたものです。

徳川幕府が終焉した後も、地元では家康が敬愛されていたのですね…。
鳥居の脇に、ここが城跡であったことを示す「引間城本丸跡」の案内板と、「曳馬城跡」と刻まれた石碑があります。

曳馬城は、徳川家康だけでなく、もう一人の天下人・豊臣秀吉にもゆかりがあります。
秀吉は曳馬城主・飯尾氏の配下である松下氏に16歳から3年間仕え、浜松で過ごしたとされます。

敷地内には、曳馬城にありし頃の徳川家康と豊臣秀吉のブロンズ像が設置されています。
家康は31歳の壮年像、秀吉は16歳の青年(少年)像。同地は出世の城としてパワースポットにもなっています。

■椿姫観音

少し足を延ばすと、亡き夫・飯尾連龍に代わり城主を務めたお田鶴の方ゆかりの史跡があります。
それが「椿姫観音」(つばきひめかんのん)です。

(椿姫観音)

住宅の脇にひっそりと建つ小さな御堂…。
御堂の前には、元曳馬城主飯尾乗竜(連龍)奥方「お田鶴の方」と刻まれた石碑もあります。

女城主・お田鶴は、家康の降伏勧告に屈せず、最後まで戦い続けました。
最後は、お田鶴の方自ら薙刀を手にして奮戦、侍女らと共に討死を果たしたといいます。

築山御前(家康の正室)は彼女の死を哀れみ、塚の周りに100株余りの椿の花を植えたといわれています。
椿は毎年美しく咲き誇り、塚はいつしか椿塚と呼ばれ、それが椿姫の名の由来になったのだとか…。

■基本情報

【曳馬城跡(元城町東照宮)】
住所:静岡県浜松市中区元城町111-2
アクセス:JR浜松駅から徒歩20分またはバス10分
営業時間:24時間

【椿姫観音】
住所:静岡県浜松市中区元浜町 133
アクセス:JR浜松駅から徒歩15分
営業時間:24時間

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