"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」です。

(城南宮 拝殿)

■後鳥羽上皇

将軍暗殺で動揺する鎌倉…。この事態にほくそ笑んだ人物がいます。
京にいる強力な独裁者・後鳥羽上皇です。

後鳥羽上皇は、摂津国の地頭交替を要求し東国にゆさぶりをかけます。地頭の任命は頼朝以来の幕府専決事項でした…。
北条氏がこれを断ると、将軍継嗣として上皇の皇子を送るという内諾を破棄して、対決姿勢を鮮明にしました。

承久3年(1221)後鳥羽上皇は、城南宮で催す「流鏑馬揃え」の名のもとに諸国の武士たちを招集します。
集まったのは、近畿をはじめ、美濃、尾張、但馬等の武士1700騎。幕府の有力御家人である藤原秀康や佐々木経高、三浦胤義もいました。

上皇は、親鎌倉派の西園寺公経父子を幽閉、同じく親鎌倉派の伊賀光季を襲撃し殺害。
そして、北条義時追討の院宣を諸国に向けて発したのです。それは、後に言う「承久の乱」のはじまりでした。

(左:城南宮神苑、右:高陽院跡)

■城南宮

ついに、京の最高権力者・後鳥羽上皇が動き出します。
鎌倉打倒を決意して、城南宮で催す「流鏑馬揃え」を名目に、諸国から兵を集めました。

(城南宮)

この招集が行われたのが、承久3年(1221)5月のこと。
同じ年の1月にも、これより小規模ながらも、笠などを的にして弓矢を射る「笠懸」が行われています。それは故実朝の三回忌の日でした…。

わざわざ実朝の命日に武技の行事を行うとは…。後鳥羽はすでにこのとき、挙兵の決意を固めていたのかもしれません。
そんな城南宮を訪れると、そんな血なまぐさい決意など無縁のように、城南宮を取り囲むように美しい花と庭園の風景が広がっていました。

清流や池を随所に配した城南宮の神苑「楽水苑」…そこには、「源氏物語」に描かれた80種あまりの草木が植栽されています。
毎年4月29日と11月3日には、平安の雅を再現する「曲水の宴」が開催されます。後鳥羽上皇も、ここで鎌倉打倒を期する宴を楽しんだのでしょうか…。

■高陽院跡

後鳥羽上皇による流鏑馬揃えを名目とした兵の招集…。
実際に兵が集まったのは、後鳥羽上皇が院政をとった場所「高陽院」(かやのいん)でした。

もともとは桓武天皇の皇子・賀陽親王(高陽親王)の邸宅でしたが、平安中期に摂関・藤原頼通が手に入れ当地に広大な邸宅を築きました。
鎌倉時代に入ると、後鳥羽上皇が当地を院御所とし院政の拠点としました。鎌倉打倒の謀議を重ねたのも、この地であったと考えられます。

いまは、残念ながら往時を偲ぶものは残っていません。案内板が残るのみです。
案内文には、当時の高陽院の敷地が他貴族の邸宅の4倍もある最大級のものであったことや、発掘調査により絵図や文献でしかうかがえなかった豪華絢爛な遺構の一部が見つかったことが記されていました。

承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇はここに集まった1700騎の兵に対し命令を下します。
「北条義時を討て」。上皇は、義時追討の院宣を発出。ついに、承久の乱がはじまったのです…。

■基本情報

【城南宮】
住所:京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
アクセス:地下鉄「竹田」駅から徒歩7分、もしくはバス「城南宮前」下車すぐ
営業時間:(参拝)9:00~16:30

【高陽院跡】
住所:京都府京都市中京区 小川通丸太町
アクセス:地下鉄「丸太町」駅から徒歩7分

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