家康、江戸をひらく!家康が最初に手掛けた運河開削…江戸を未来につなぐ"道三堀"

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康、江戸をひらく!家康が最初に手掛けた運河開削…江戸を未来につなぐ"道三堀"です。

(和田倉門付近)

■家康を辿る物語

天正18年(1590年)北条氏の降伏後、豊臣秀吉の命によって、徳川家康は関東へ移封されました。
このとき家康が本拠としたのが、堅城・小田原城のある小田原でも武士の聖地・鎌倉でもなく、まさかの江戸でした。

当時の江戸は、葦(あし)が生い茂る低湿地帯が広がる未開の地…。新たに城や町をつくるのは至難のわざと思われました。
本拠とする江戸城に至っては粗末でとても城とは言えない有り様…。側近の本多正信が「せめて玄関だけでも新しくしたら…」と進言するほどでした。

それに対し「いらぬ立派だては無用」と一蹴した家康が、最初に取り掛かったのが運河の開削工事でした。
江戸城建設などの物資運搬のために竜の口(和田倉門のそば)から平川(日本橋川)に合流する約1kmの水路を開削させました(道三堀)。

同時に城下町を建設するために、日比谷入江の埋め立てにも着手。神田山を切り崩して、その土を埋め立てに充てました。
さらに水源確保や道路の整備など様々なインフラ整備を進めます。こうして、少しずつ江戸の町が整備されていったのです。

■家康江戸入府

現在、世界に冠たる大都市となった東京。その礎を築いたのが徳川家康です。
家康は、秀吉から関東移封を命じられると、本拠を江戸に置くことを決めました。

当時の江戸は、葦の生い茂る未開の地…。しかし、家康の見方は違っていました。
関東平野の真ん中に位置する江戸は、海に面しているうえに関東に幾筋も流れる川の終着点でした。

物資を運搬するのにこれほど適した土地はありません。実は秀吉が本拠を置く大阪の地もそうでした。
物資の流通は都市の発展に直結する…。家康がそう考えていたことが、江戸を本拠とした大きな要因と考えられます。

そんな家康が江戸に入府後、最初に着手したのが、物資を運搬するための運河の開削でした。
まさに江戸の未来を担う開削工事、未開の江戸に人工の水路として初めて造られたのが「道三堀」(どうさんぼり)です。

江戸湊に河口を持つ平川(日本橋川)と江戸城竜の口(和田倉門のそば/現在のパレスホテル付近)を繋ぐ約1kmの水路
工事には徳川家の家臣たちがかり出されて、大変な苦労の末にこの運河を掘ったといいます。

(写真:和田倉門付近)

道三堀の名は、堀の南岸に幕府侍医の曲直瀨道三の屋敷ができたことから付きました。
かつて堀のほぼ中間点に、その名を由来とする「道三橋」がありました。現在は高層ビルが建ち並ぶオフィス街…その中にひっそりと「道三橋跡」の看板が建っています。

(写真:道三橋跡)

この水路の開通によって、江戸城建設のための物資が平川(日本橋川)を遡り、この堀を通って運搬されるようになりました。
さらに、小名木川を経由して行徳塩田まで直通したことも、当時の塩が生活必需品であると同時に軍需物資であったから、非常に大きな意義がありました。

(写真:平川との合流地点とされる場所(現在はビル建設中)と現在の日本橋川)

さらに家康は、神田山を切り崩して、その土をもって江戸城近くまで食い込んでいた海(日比谷入江)を埋め立てました。
このとき埋め立てられたのが、現在の日比谷公園や新橋周辺です。なんとも感慨深いですね…。

家康、江戸をひらく…。のちに江戸に幕府を開く家康の、その最初の一歩は、まさに江戸の町を一から拓くものでした。
しかし一方で、天下人・秀吉のいる西国では不穏な動きが出ていたのです…。どうする家康?続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴っていきます。

■基本情報

名称:和田倉門跡
住所:東京都千代田区皇居外苑3−1
アクセス:JR東京駅から徒歩5分
営業時間:24時間

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