城ぶら「二条城」!家康と秀頼の対面がついに実現!歴史を動かす"二条城会見"

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「二条城」!家康と秀頼の対面がついに実現!歴史を動かす"二条城会見"です。

■家康を辿る物語

慶長16年(1611年)、後陽成天皇の譲位に伴う儀式に立ち会うため、徳川家康は駿府から4年ぶりの上洛を行います。
その際、織田有楽斎や高台院を通じて豊臣秀頼の上洛を働きかけ、二条城での会見を要請しました。

加藤清正らの説得によって上洛要請を承諾した秀頼は、同年3月27日に大坂城を出立
淀で宿泊したのち隊列を組んで出発すると、翌3月28日の8時ごろに会見場所の二条城に到着しました。

このとき家康は秀頼を、丁重に庭先まで出て迎えました。秀頼もそれに対して、丁寧な挨拶を返します。
さらに家康は、秀頼を先に御成の間に上げて対等な立場で会見を行うよう促しましたが、秀頼はこれを固辞して家康を先に上げました。

こうして会見は、穏やかな雰囲気のまま2時間ほどで終了。秀頼は豊国神社を参拝した後、三条から船で帰途につきました。
会見の成り行きを心配して見守っていた大坂・京の庶民らは、何事もなく会見が終わった事を悦び、天下泰平を祝ったといいます。

■二条城

ついに実現した、徳川家康と豊臣秀頼の会見。のちに「二条城会見」と呼ばれる重要な出来事です。
今日は、その舞台となった二条城を訪れましょう。日本100名城の一つ、世界遺産にも登録されている名城です。

この日は、あいにくの小雨の降るなかでの訪城となりましたが、雨の二条城も雰囲気があってまた良い…。
さて、家康はどの辺りまで出て秀頼を迎えたのかな…なんて、妄想をふくらましながら城内に入ります。

(左:東南隅櫓、右:東大手門)

二条城は慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所とするため築城しました。
将軍就任の祝賀の儀なども執り行った重要な場所。その舞台となった御殿は、現在の「二の丸御殿」です。

(左:唐門、右:二之丸御殿)

二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸期の住宅様式・書院造を今に伝える重要な遺構。国内の城郭に唯一残る御殿群です。
内部は、狩野派による障壁画や多彩な欄間彫刻・飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な設えとなっています(内部は撮影禁止)。

御殿の大広間西側に面して造られた池庭も見事…。こちらは寛永3年(1626年)後水尾天皇の二条城行幸の際に改修されたものとみられます。
ということは、家康が秀頼を出迎えたという庭とは違うのでしょう…。また、会見場所となった「御成の間」も、その後の改修により、現在は残っていません。

(二の丸庭園)

その寛永3年(1626年)の改修の際に、城の敷地を西側に広げて設けられたのが、現在の本丸です。それまでは現在の二の丸が本丸だったのでしょうね。
その時に建てられた御殿は天明期の大火で消失しましたが、明治期に入って桂宮御殿の一部を移築する形で現在の本丸御殿が整備されました。
こちらも内部は、京狩野ら諸流の障壁画や欄間彫刻によって装飾された絢爛な設え。洋風のシャンデリアや絨毯などもあり、幕末の宮廷文化を今に伝える貴重な建物となっています(内部は撮影禁止)。

(本丸御殿)


さて、ようやく実現した家康と秀頼の会見(二条城会見)。宥和に向かうかに見えた両者ですが、事はそうは易く流れませんでした。
一説には、二条城で成長した秀頼の姿を見て、家康が危機感をいだいたとも言われます。何しろ、秀頼は身長が6尺5寸(190㎝超)と伝わる偉丈夫…。

しかもこのとき秀頼19歳、片や家康は70歳を超えていました。次の世代に一抹の不安を感じたとしてもおかしくありません。
そして、両者の関係はこの後、ある事件を機に一気に険悪なものとなります。続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて…。

■基本情報

名称:二条城
住所:京都府京都市中京区二条城町541
アクセス:京都市営地下鉄「二条城前駅」下車すぐ
開城時間:8:45~16:00
休城日:12/29~31

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