
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「名古屋城」!東海道の防衛と西国への牽制と…家康が天下普請で築いた天下の名城…です。

■家康を辿る物語
大御所として駿府に移り住んだ徳川家康。年少の息子、9男義直、10男頼宣、11男頼房も駿府に移り教育を施されました。
この3人の息子たちは、のちに尾張・紀伊・水戸の藩主となり、幕府を支える「徳川御三家」の礎を築くことになります。
慶長14年(1609年)、家康は義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決めました。
もともと尾張には清州城がありましたが、水害に弱い清州の地形や関ヶ原後の政治動向が移転の背景にあったとされます。
名古屋は江戸と大坂の中間に位置する要所。そこに堅固な要塞城を築くことで、東海道の防衛機能を高めるとともに諸大名の蜂起を抑止…。
さらに、この居城の築城を主に西国大名による「天下普請」で行わせることで、彼らの財力消耗を図ったものと考えられます。
加藤清正、福島正則、池田輝政、加藤嘉明、黒田長政ら20人の外様大名が城の普請を担当。
大量の財と役夫を動員して名古屋城を築城しました。こうして、天下の堅城「名古屋城」が出来上がったのです。
■名古屋城
今日の城ぶらは、家康が天下普請により築いた「名古屋城」へ。
日本100名城の一つに数えられる名城、近世城郭の到達点として高く評価される城です。
もともとは、今川氏の築いた那古野城があった跡地。廃城となっていた所を家康が目をつけて築城を指示したと言われます。
現在の名古屋城の二之丸跡が那古野城の故地とされ、「那古野城址」の碑が建っています。


(左:那古野城址の碑、右:二之丸跡)
その二之丸跡は現在、「二之丸庭園」として一般に開放されています。
名古屋藩初代義直が当地に二之丸御殿を造営、その後十代斉朝が回遊式庭園をつくったものを復元整備したものです。


(二之丸庭園)
二之丸御殿は現在残っていませんが、本丸御殿は復元され一般に公開されています。
初代義直の住居・政庁として建造、後に将軍専用の居館となりました。総面積は約3,100㎡、部屋数は30を超える平屋建ての建物です。


(本丸御殿)
館内は絢爛豪華…。至るところに息を呑むような板絵や襖絵が施されています。
上洛殿と呼ばれる部屋は、3代将軍家光の上洛に合わせて増築された御成御殿。本丸御殿で最も格式の高い部屋です。


(上洛殿)
そして名古屋城の最大の見どころは天守閣です。屋根上部を飾る金の鯱(しゃち)が有名ですね。
さすがは天下の名城、圧巻怒涛の城姿です。こちらも再建復元されたものですが、その威容は往時の徳川家の権勢をうかがい知るに余りあります。


(天守閣)
石垣ファンにはたまらない、そそり立つように組まれた天守台の石垣…。
名古屋城の石垣の建築は20人の外様大名に細かく割り当てられましたが、重要な天守台の石垣は城づくりの名人とされた加藤清正が任されたと伝わります。


(天守閣の石垣)
他にも、東南隅櫓や西南隅櫓など、豪華でいて戦国の名残りを残す櫓も見ることができます。
こうした最強の城郭をまざまざと見せつけられた西国大名たちは、戦など起こす気持ちが失せたのではないでしょうか。


(左:東南隅櫓、右:西南隅櫓)
こうして豊臣恩顧の大名らも徳川の天下を肌で感じるなかで、なおも大坂城は動きませんでした。
名古屋城普請には豊臣家へも動員が命じられましたが、秀頼の母淀殿がこれを拒否…。それはやがてやって来る戦乱の火種となったのです。
■基本情報
名称:名古屋城
住所:愛知県名古屋市中区本丸1−1
アクセス:名城線 「名古屋城」駅徒歩5分
開演時間:9:00~16:30
休園日:12/29~1/1