大坂夏の陣「郡山城の戦い」!豊臣を引けない戦いに追い込む大和郡山城襲撃

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、大坂夏の陣「郡山城の戦い」!豊臣を引けない戦いに追い込む大和郡山城襲撃です。

■家康を辿る物語

大坂冬の陣は和議によって一旦は決着。しかし、依然として豊臣方と徳川方には火種がくすぶっていました。
慶長20年(1615年)3月、なおも大坂城下に残っていた浪人らの乱暴狼藉や京伏見への放火の風聞といった不穏な動きが表ざたとなります。

徳川方は豊臣方に対して、浪人の放出か大坂城からの移封・国替えを要求します。
豊臣方はこれを拒否。武器、弾薬、兵糧を集め、埋められた堀を掘り返すなど、再び戦の準備を始めました。
こうした動きを受けて、家康は諸大名に出陣を要請。自身も京都二条城に入ると、追って到着した秀忠と軍議を開催、大坂に進軍することを決定します。

両軍の決戦待ったなしとなった慶長20年(1615年)4月26日、豊臣方は大野治房が大和郡山城を襲撃
これを落とすと、付近の村々に放火。さらに28日は徳川方の兵站基地であった堺を焼き討ちしました。

大和郡山城は、豊臣秀頼の移封先候補として名が挙がっていた城でした…。
こうして、徳川と豊臣の確執はもはや修復しがたいものとなり、最終決戦「大坂夏の陣」が始まったのです。

■大和郡山城

徳川と豊臣、和平は束の間でした。大坂の陣は、冬から夏へ…「大坂夏の陣」が勃発します。
今日は、その端緒となったとも言える「郡山城の戦い」の舞台、大和郡山城(奈良県大和郡山市)を訪れましょう。

大和郡山城は、天正8年(1580年)筒井順慶が入城して築城を開始。同13年(1585年)豊臣秀長(秀吉の弟)の入部によって本格的に整備されました。
秀長は大規模な城郭をつくるとともに城下町の整備も進めたようです。いわば豊臣に深いゆかりのある城…。徳川方が秀頼の移封先として考えた理由も分かります。
家康は、豊臣を一大名として存続させる手立てを探っていたと考えられます。

いま当地を訪れると、建物などの遺構は残っていませんが、さすがは太閤秀吉を支えた弟・秀長の城
堀跡や石垣、天守台跡など、往時の権勢をうかがい知れる遺構を見ることができます。

(左:石垣と堀跡、右:天守台遠景)

特に圧巻は、本丸の北端部に残る天守台。上面が約16m×18m、基底部が23m×25mのどっしりとした基盤です。
一説には、この天守台の上に5層の天守が建っていたとの伝承もあります。大坂城を防衛するという意図もあったのでしょう、大規模な城郭が築かれたことが偲ばれます。

(天守台)

石垣は「野面積み」で、自然の石が多く積み上げられています。石垣ファンにはたまりませんね…。
当時大和は石材が不足していたために、墓石や石仏なども使われているのが特徴。「逆さ地蔵」は特に有名です。

(左:天守台、右:逆さ地蔵)

追手門や櫓なども当時の威容をうかがい知るに十分な重厚さです。
のちの歴史を知っている者からすると、一大名としてここに移るという選択肢をとれなかったのかと、残念に思ってしまいます。

(左:追手門、右:追手向櫓)

しかし、その選択肢を自ら否定するように、豊臣方はこの大和郡山城を襲撃し、村々を焼き払いました。
こうして豊臣にとって引けない戦いが始まってしまうのです。大坂夏の陣…。続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。

■基本情報

名称:大和郡山城跡
住所:奈良県大和郡山市城内町2−255
アクセス:近鉄「郡山駅」から徒歩10分

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