
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、大坂夏の陣終結…豊臣家滅亡す。大坂城山里丸"豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地"へです。

■家康を辿る物語
真田信繁(幸村)軍の壊滅によって、共闘していた毛利勝永軍も集中攻撃を受けることとなり大坂城へ撤退。
岡山口で奮戦を続けていた大野治房軍も、徳川秀忠軍の反撃を受けて、城内に撤退しました。
前線から撤収した将兵を回収した大坂城ですが、堀は埋め立てられ籠城できるものでもなく、徳川軍の侵入を防ぐ手立てはありませんでした。
ついには、秀頼の台所頭が徳川方に寝返って城に火を放ち、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰しました。
城内に徳川軍が押し寄せるなか、豊臣秀頼と淀殿らは天守を出て山里丸に逃れて戦火を避けていました。
大野治長は一縷の望みを託して、千姫を無理に脱出させると、自身以下が切腹する替わりに秀頼・淀殿を助命するよう嘆願を行いました。
家康は秀忠に判断を任せますが、秀忠は断固として秀頼母子の助命を許しませんでした。
慶長20年(1615年)5月8日、山里丸の蔵のなかで、秀頼や淀殿ら32人は自害して果てました。
■豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
大坂城の本丸北側、天守から一段下った一帯は「山里丸」(山里曲輪)と呼ばれています。
豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や桜、藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていたといいます。
秀吉は要人をもてなす場、そして家族のくつろぐ場として山里丸を利用したようです。
秀頼・淀殿母子にとっても思い出の多い場所だったことでしょう…。その山里丸が、豊臣家の最後を見届ける場所となりました。
当地を訪れると、さすがに茶室跡は残っていませんが、「山里」の名のとおり木々が生い茂っています。
また、当地に広がる大きな石の数々は、大阪城の石垣の遺構(刻印石広場)。残念ながら、豊臣時代の石垣ではなく、のちに築城された徳川時代のものです。


この山里丸の一角に、ひっそりと建っているのが「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑です。
徳川方に追い詰められた秀頼・淀殿母子ら主従32人は、山里丸にあった籾蔵で自害して果てたと伝わります。


こうして大坂の陣は終結。豊臣家は滅亡しました。豊臣方の主な武将らの最期は次のとおりです。
豊臣秀頼、大坂城山里丸で自害。享年23。
淀殿、大坂城山里丸で自害。享年46(推定)。
大野治長、大坂城山里丸で自害。享年47。
後藤基次(又兵衛)、道明寺の戦いにて討死。享年56。
木村重成、八尾・若江の戦いにて討死。享年23(推定)。
真田信繁(幸村)、天王寺・岡山の戦いにて討死。享年49。
毛利勝永、大坂城山里丸で秀頼の介錯をしたのち自害。享年37。
長宗我部盛親、大阪の陣後、逃亡するも捕らえられ斬首。享年41。
■基本情報
名称:豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地(大坂城山里丸跡)
住所:大阪府大阪市中央区大阪城1
アクセス:JR「大阪城公園駅」から徒歩15分