真田幸村、家康本陣に突撃を敢行!"日本一の兵(つわもの)"真田幸村終焉の地

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、真田幸村、家康本陣に突撃を敢行!"日本一の兵(つわもの)"真田幸村終焉の地です。

■家康を辿る物語

豊臣と徳川の最終決戦「大坂夏の陣」。慶長20年(1615年)5月7日、戦いは佳境を迎えました。
激戦の最中、豊臣方の真田信繁(幸村)が敵中を突破、徳川家康の本陣に突撃を敢行します。

思いも寄らぬ真田軍の襲撃に家康本陣は混乱を来します。家康の旗本衆は恐怖して逃走…。
家康の馬標も倒されるほどで、家康自身も騎馬で逃げる事態に陥りました。このとき家康は自決を覚悟するほど追い詰められたと言われます。

しかし豊臣方の被害も大きく、やがて数で勝る幕府軍が陣を立て直し、豊臣軍を押し返していきました。
真田軍も、家康の窮地を知って岡山口から駆け付けた井伊直孝軍(一説には藤堂高虎軍)の攻撃によって切り崩され、ついに力尽きて潰走…。

信繁(幸村)は、安居神社で休息をとっていたところを、松平忠直の家臣である西尾宗次によって討ち取られ、戦死しました。

■真田幸村終焉の地

真田信繁(幸村)。永禄10年(1567年)、信濃の武将・真田昌幸の次男として生まれました。
上杉・北条・徳川と従属離反を重ねた昌幸ですが、豊臣秀吉が台頭するとこれに臣従。信繁(幸村)は人質として大坂に移り、秀吉の馬廻衆を務めました。

関ヶ原の戦いでは父昌幸と共に西軍に与して、上田城で徳川秀忠軍を足止めするなど東軍を苦しめました。
関ヶ原合戦後、九度山に蟄居となりましたが、豊臣秀頼の招きを受けて大坂城に入城。大坂冬の陣では真田丸を築き徳川方を撃退するなど、豊臣方の主将として活躍しました。

そして大坂夏の陣。真田信繁(幸村)の名を後世に鮮烈に刻むことになる最後の戦い「天王寺・岡山の戦い」をむかえます。
このとき信繁(幸村)が陣を置いたのは、奇しくも冬の陣で徳川家康が本陣を置いた茶臼山でした。そのため、現在史跡となっている茶臼山は「大坂冬の陣徳川家康本陣跡・大坂夏の陣真田幸村本陣跡」という注釈が付されています。

(茶臼山)

圧倒的な形成不利のなか、信繁(幸村)の狙いはただ一つ、「家康の首」を取ること…。
茶臼山を出陣した信繁(幸村)は、徳川方の大軍と交戦しながら、家康本陣に狙いを絞り突撃を敢行。そしてついに家康本陣への突入に成功しました。

その勇猛果敢な戦いぶりは後世に語り継がれ、信繁(幸村)は「日本一の兵」(にほんいちのつわもの)とも評されました。
しかし最後は力尽きて撤退。四天王寺近くの安居神社で休息をとっていたところを、徳川方に発見され討ち取られました。

(安居神社)

現在、信繁(幸村)最後の地とされる安居神社には、「真田幸村戦死跡之碑」が建っています。
さらに真田信繁(幸村)の像も。この姿は、家康本陣に突撃を敢行したあと休息をとっているところでしょうか…。
創作ではありますが、表情に「やり切った」感が浮かんで見えるのは幸村ファンには嬉しいですね。見事に「日本一の兵」ぶりを発揮しました。

(左:真田幸村戦死跡碑、右:真田幸村像)

信繁(幸村)はその最後、敵方のに西尾宗次と遭遇すると何ら抵抗もすることなく、「この首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られたといいます。
慶長20年(1615年)5月7日、真田信繁(幸村)死す。享年49。その名を後世に残す鮮烈な最期でした。

■基本情報

名称:安居神社(真田幸村戦死跡之碑)
住所:大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
アクセス:大阪メトロ「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩6分

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